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「家忠日記 一」を読む 18

(庭に一輪だけ咲いたトウキンセンカ)

午後、掛川文学講座へ出席する。課題は「影武者徳川家康」、著者の隆慶一郎は作家活動が60歳から66歳で死ぬまでの6年だけであった。6年あれば相当のことが出来るということ。

「家忠日記 一」の解読を続ける。

 天正六年(1578)寅十月
同九日 丙辰 夜、雨する。
       左衛門尉所へ越し候。

同十日 丁巳 風吹へ番に越し候。松平玄蕃所へふる舞い候。

※ 風吹(かざふき)- 風吹砦。掛川市岩井寺と接する標高174.6メートルの風吹山を主郭とし、尾根添に佐束山より小笠山にかけて構築した、高天神城を取り囲む徳川方の砦。

同十一日戊午 雨、夜ふる。
       家康より着到つけ越し候。
       侍八十五人、中間壱百二十六人、鉄砲十五、
       かつ弓六張、鑓廿五本有り。鑓使い三人。

※ 着到(ちゃくとう)- 着到状のこと。出陣した諸将が戦場に到達した旨を上申する書状。

同十二日己未 敵、天(高)天神‥‥の引き候。和田彦二郎所に拍子候。
       松平玄蕃同心金左衛門所に振る舞い候。

※ 拍子(ひょうし)- 拍子舞いのこと。鼓に合わせて謡いつつ、扇を持って舞ったもの。

同十三日庚申 寅刻より酉時まで雨降り。
       阿部善九郎所より懸河へ移り候へ由、申し来たり候。

同十四日辛酉 風吹より懸河益田まで越し候。
       敵、大井川を越し候由、牧野(城)より注進候。


同十五日壬戌 信康、各国衆振る舞い成られ候。
       敵、諸人数計り、昨日川を越し候て、少々‥‥陣取り候。注進候。
同十六日   ‥‥

同十七日甲子 敵、島田まで三備え働せ候。
同十八日乙丑 

同十九日丙寅 敵、青嶋より田中(城)まで引取り候。
同廿日 丁卯 
同廿一日戊辰 
同廿二日己巳 辰時より酉時まで雨降り。
同廿三日庚午 
同廿四日辛未 何も、親類衆にふる舞い候。
同廿五日壬申 夜より雨降り。
同廿六日癸酉 夜まで雨降り。
同廿七日甲戌 初雪ふる。
同廿八日乙亥 池野有助越し候。

同廿九日丙子 申時なえゆる(地震)
       松平伊豆守越られ候。振る舞い候。

同晦日 丁丑 牧野(城)へ鉄砲衆廿人籠り候。
       敵勝頼、廿五日に引き候由にて、各(おのおの)浜松まで引き候。
       信康公、三河へ戻られ候。


この日、主君である信康に敬称「公」を付ける。この後、家康にも「公」を付ける。いわば工場が会社になって、「親方」から「社長」になるようなもので、それだけ軍団の組織が明確になってきたということであろう。
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「家忠日記 一」を読む 17

(大代川が氷る)

今朝の寒さは大代川を氷結させた。ほとんどは陽が当ると溶けたが、橋の陰ではお昼まで残った。

「家忠日記 一」の解読を続ける。

 天正六年(1578)寅十月
同廿四日壬寅 巳時まで雨降り。
       酉時に甲州衆取り出で候由にて、
       酒井左衛門尉所より陣触れ越し候。
       明日、廿五日ニ立ち候へし由、申し越し候。

同廿五日癸卯 寅刻出でにて、浜松へ日通しに越し候。
       松平玄蕃所にふる舞にて、城へ出で候。

同廿六日甲辰 如雪、同城小姓衆、我ら所へ越され候。
同廿七日乙巳 辰時より未時まで雨降り。
       信康、浜松まで立ちなされ候。

同廿八日丙午 信康へ出仕候。酒井左衛門尉所へも越し候。
       申刻に大なえゆり候。五十年已来の大なえの由候。
       半時程、又同時分ゆり候。戌刻に又地震候。

※ 大なえゆり - 大地震。(「浜松市史」によれば、同日、遠江に地震があった)この後も、余震が度々あったようだ。

軍仕立てに大地震が重なって、まさに風雲急を告げるといったところである。

同晦日 丁未 牧野原より敵、山を越し候由、注進。
       夜、なえゆる(地震)。これ知る時を‥‥
       敵、大井川を越し候由、牧野(城)より注進にて、
       各国衆、見付まで出陣候。


 天正六年(1578)寅十一月
 霜月(11月)
一日  戊申 見付に候‥‥
       申時地震する。

同二日 己酉 申時なえゆり(地震)
       敵、小山、相良筋、移り候由にて、
       家康、信康、馬伏塚へ御陣に取り候。
       諸人数は柴原に有り候。

同三日 庚戌 酉時なえゆる。
       敵勝頼、横須賀の城向いまで働き候。
       家康同惣人数、横須賀城際に備え候。
       敵、高天神まで引取り候。
       味方も本陣へ引き候。
       駈け馬、善六へいたし候。


横須賀城を前に、家康、勝頼両軍がにらみ合ったが、いくさに成らずに、両軍共に引いた。勝頼の出陣は、高天神城などへの兵粮の補給の意味があったのであろう。

同四日 辛亥 夜なえゆる。
       敵、物見横須賀へ働き候。この方人数も、
       ‥‥家康と小笠へ越され候。
同五日 壬子 ‥‥

同六日 癸丑 信康、山鷹へ出られ候。


この「山鷹」が何を意味するのか。「鷹野」は鷹狩りのことだから、「山鷹」も山で行う鷹狩りのことを示しているとすれば、まだ、いくさの危険が去ったわけでもないこの時期に、鷹狩とは何か奇異な感じがする。信康が自刃するのは10ヶ月後に逼っている。

同七日 甲寅 寅刻より雨降り。
       左衛門尉所より、雨止み次第に着到、
       家康より、追っ付け来(こ)ん由、申し来り候。
       尾州山崎、水野藤次(郎)殿より、飛脚越され候。
       摂津国荒木信濃、信長へ御敵申し候由、申し来り候。
       音信置き難く越し候。平岩七之助所へ遣し候。

※ 荒木信濃 - 荒木村重(あらきむらしげ)。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。天正六年十月、三木合戦で秀吉軍にいた村重は、有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した。
※ 音信(いんしん)- 便り。通信。


「音信置き難く越し候」とあるのは、この音信は本来深溝に宛てて来たものであるが、家忠の出陣先(たぶん、小笠)まで届けられたものであろう。
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「家忠日記 一」を読む 16

(夕陽に風花が舞う)

気温の上がらない寒い一日であった。夕方のムサシの散歩では夕陽の中、風花が舞った。

「家忠日記 一」の解読を続ける。

 天正六年(1578)寅十月
 十月小
一日  己卯 会下へ参り候。
同二日 庚辰 
同三日 辛巳 ‥‥
同四日 壬午
同五日 癸未 丑時より雨降り、酉時まで。

同六日 甲申 在郷御礼に浜松へ、勘解由左衛門越し候。

※ 勘解由左衛門(かげゆざえもん)- 河合勘解由左衛門。永禄4年(1561)に酒井正親に付き、以来代々酒井家の家老を務める家柄であった。

同七日 乙酉 
同八日 丙戌 鶉(うずら)突きに出候。
同九日 丁亥 西風吹く。
同十日 戊子 
同十一日己丑 西風吹く、荒く。

同十二日庚寅 同西風吹く、荒く。門木引き遣し候。
       はい鷹とまり候。
       浜松酒井左衛門尉如雪より‥‥
       作岡の河合勘解由左衛門債儀事、
       公事候て、目安上げ候由申し来たり、早々
       裁許仕り候由、申し来り候。

※ 門木(かどき)- 正月、家の内外に立てる生木のことで、門口に松を立てる例が多いので門松と総称されている。10月では少し早い気がするが。
※ はい鷹(はいたか)- ハイタカ。日本では、多くは本州以北に留鳥として分布する。オオタカと共に鷹狩に用いられた。

       
同十三日辛卯 鶉突きに出候。
同十四日壬辰 門木引遣し候。巳時より雨降り。
       会下東‥‥越され候。山崎よりも藤左衛門と云う人越し候。
       浜松へ河合裁許に勘解由を越し候。

同十五日癸巳 会下へ参らせ候。
       鷹の消息。子刻まで雨降り。
同十六日甲午 東条舞へ越し候て舞候。
       酉時より雨降り。籠作り遣し候。

同十七日乙未 丑刻まで雨降り。御家門様西条、近日御成候とて、
       酒井左衛門所より番匠雇い越され候。

※ 番匠(ばんしょう)- 後の大工のこと。

寅刻まで雨降り。又酉時雨降る。
       鷹野へ出で候。
同十九日丁酉 寅刻まで雨降り、西風荒く吹く。
       酒井左衛門尉所より武田四郎出で候由、申し来たり候。
       点取り誂諧。

※ 武田四郎(たけだしろう)- 甲斐の武田勝頼のこと。

甲斐の武田勝頼が動き出したとの報に、またまた戦いが始まる気配になる。

同廿日 戊戌 同点取の誂諧候。
同廿一日己亥 会下へ参らせ候。
同廿二日庚子 戌刻より卯時まで雨降り。
       河合公事、前の如く仕り候へ共、御内‥‥語‥‥
       出田作左衛門所より、鑓を五本越し候。
       鷹野へ出で候。

同廿三日辛丑 戌刻より雨降り。
       鷹野へ出で候。
       大坊へ点取の、夜誂諧にて越し候。
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「家忠日記 一」を読む 15

(裏の畑の椿の花)

「家忠日記 一」の解読を続ける。

 天正六年(1578)寅九月
同十日 戊午 鵜殿八郎三郎所へ振舞にて越し候。
       信康、田原へ鹿狩りに越され候。

同十一日己未 祈勝候。

同十二日庚申 御祝言御祝いとして、浜松より家康越され候。
       松(平)太郎左衛門殿振舞い候。

同十三日辛酉 酉時より雨降り候。
       家康御屋敷へ出でて、松平太郎左衛門所に振舞い。

同十四日壬戌 浜松へ家康御帰り。
       酉時まで雨降り。
同十五日癸亥 深溝へ越し候。
同十六日甲子 卯刻より雨降り。
同十七日乙丑 雨降り。

同十八日丙寅 寅刻まで雨降り。九月尽くしの連歌。
       発句         家忠
        神垣や 松も世にふる 原野より

同十九日丁卯 会下へまいらせ、深溝とやに、つみの鷹とまり候

同廿日 戊辰 日待ち候。吉田酒井左衛門尉所へ、
       人を越し候。岡崎越す事にや、越し候。

同廿一日己巳 岡崎へ帰り候。
同廿二日庚午 鵜殿八郎三郎、松平太郎左衛門、越され候。
       点取りの誂諧候。
       戌刻に吉田左衛門尉所より、家康各國衆、岡崎在郷の儀、
       無用の由、申し来たり候。

※ 誂諧(ちょうかい)- 俳諧の連歌のこと。点数を付ける連歌の会。

同廿三日辛未 在郷に付、鵜殿八郎三郎、松平太郎左衛門、我ら両三人の所より、
       石川伯耆、平岩七之助所へ使者を遣し候へば、
       早々在所へ越し候へし由、申し来り候。

同廿四日壬申 細工人越し候て、母衣の芯作らせ候。
       松平太郎左衛門殿越され候て、拍子候。

※ 母衣(ほろ)- 鎧の背につける幅広の布。馬上で風を受けてふくらみ、流れ矢を防いだ。後に内部に鯨のひげや竹などで作った骨を入れ、常にふくらんだ形状を維持して、背負う装飾具に変化し、差し物の一種となった。
※ 拍子(ひょうし)- 拍子舞のこと。


同廿五日癸酉 丑刻より雨降り。
       石川伯耆、平岩七之助所より在所へ越し候へし由、申し来り候。

同廿六日甲戌 酉時まで雨降り。
       深溝へ女ども引越候。
       我ら屋敷へ松平太郎左衛門越され候て誂諧候。


岡崎にも家があり、妻子たちもそこにいたことが解る。バタバタと在所の深溝へ引っ越した。家康と信康の仲は、この時点でもう決定的になったように、窺える。この誂諧は口実で、情報交換と善後策を話し合ったのに違いない。

同廿七日乙亥 深溝へ越し候。人足あらため越し候。
       深溝とやにて、はい鷹の片返りとまり候


19日に「つみの鷹とまり候」そして27日に「はい鷹の片返りとまり候」と謎めいた言葉がある。この鷹は何を意味するのだろう。

同廿八日丙子 丑刻雨降り候。
同廿九日丁丑 
同晦日 戊寅 酒井左衛門尉、平岩七之助所より、茶屋四郎次郎合力事、申し越し候。

※ 茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)- 安土桃山時代から江戸時代にかけての公儀呉服師を世襲した京都の豪商。初代清延が徳川家康と接近し、徳川家の呉服御用を一手に引き受けるようになった。
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「家忠日記 一」を読む 14

(散歩道のコメザクラ?、とにかく小さな花が咲き始めた)

「家忠日記 一」の解読を続ける。

 天正六年(1578)寅八月
同廿日 己亥 普請出来候。雨降り。

同廿一日庚子 未刻まで雨降り。家康、信康、小山へ動かれ候。

※ 小山(こやま)- 小山城。大井川河口西岸にある武田の出城である。

同廿二日辛丑 西駿河、田中へ苅田のため働かれ候。
       我々馬乗衆、大谷へ物見に出し候。
       平岩七之助同心、手負いして越され候。

※ 西駿河(にしするが)- 宇津ノ谷峠の西、大井川までの、駿州の西の地域。
※ 苅田(かりた)- 武田の出城、田中城周辺の田んぼを刈り取ること。


武田の田中城の兵粮を奪うため、近辺の収穫時期に入った田を、人足を出して刈り取り、刈り取った米は家康の兵粮にするというもの。当然、田中城側と小さな戦いが起きる。同心の手負いはそれで起きたのであろう。

同廿三日壬寅 人足、井籠まで送り候。
       平岩七之助同心、懸河まで送り候。

※ 井籠(いろう)- 島田市色尾(いろお)。家康の陣が置かれた。小山城まで2km弱。

同廿四日癸卯 同人足、井籠まで送り候。
       南風あらく、昨日、はたもと(旗本)より人留める事、申し越し候。

同廿五日甲辰 辰時雨降り。同人足送り候。
       小者一人生涯させて牧野番‥‥

※ 生涯(しょうがい)- いのち。生命。(ここでは苅田の戦いで犠牲になったこと)

同廿六日乙巳 亥時まで雨降り。田中へ苅田へ遣し候。
       また申時より雨降り。
同廿七日丙午

同廿八日丁未 丑刻より雨降り。
       未明に牧野城構えまで、敵、馬乗七、八騎、越し候。

同廿九日戊申 家康より、苅田兵粮、弐石給わり候。



 天正六年(1578)寅九月
 九月大
一日  己酉 兵粮取りに遣し候。

同二日 庚戌 信康、馬煩(わずら)い候て、引きて越され候。
同三日 辛亥 

同四日 壬子 西駿河より、家康牧野まで御帰陣候。
       牧野番、二連木衆替られ候。
       牧野取場、普請候。

※ 二連木衆(にれぎしゅう)- 家忠の交替になる、戸田新六郎の衆。
※ 牧野取場 - 牧野城に付属した、市場のようなもの。


同五日 癸丑 同普請候。
       家康より鵜殿善六御使、岡崎在郷無用の由、越し仰せられ候。


岡崎城に詰めている必要なしという使者。この頃から、家康、信康の不仲が始まったということなのだろうか。信康に付けていた家臣を外そうという意図か。今後の展開に注目。

同六日 甲寅 家康、信康、御帰陣候。
       国衆は普請候。牧野衆と今城へ働き候。

同七日 乙卯 牧野普請出来候。懸河まで帰陣候。
同八日 丙辰 掛川より白須賀まで帰陣候。
       浜松城出候、午時雨降り。
同九日 丁巳 白須賀より岡崎まで帰陣候。
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「家忠日記 一」を読む 13

(芭蕉句碑の拓本を取る)

午後「古文書に親しむ」に出席した。会のあと、3月の発表会の準備で駅裏の長光寺に、芭蕉の句碑の拓本を取りに行く。

「家忠日記 一」の解読を続ける。

 天正六年(1578)寅八月
 八月小
一日  庚辰 城へ出仕候。辰時半雨降り。

同二日 辛巳 牧野番に深溝まで越され候。

※ 牧野番(まきのばん)- 交替で牧野城(諏訪原城)に詰めて、守備や普請を担当する交代番のこと。西郷孫九郎 → 松平家忠(深溝城主)→ 戸田新六郎(二連木城主)の順で、一ヶ月交替で勤めた。

同三日 壬午 巳時雨降り。
同四日 癸未 戌刻より大雨降り。午時まで。
       所々、川出で候。会下へ参り候。

同五日 甲申 浜松へ日かけに越し候。卯刻辰時まで雨降り。城へ出仕候。

同六日 乙酉 雨降り候。松平玄蕃所へ振舞い候。
       浜松より掛川天然寺まで立ち候。

※ 松平玄蕃(まつだいらげんば)- 松平玄蕃允清宗。竹谷松平家の武将として徳川家康に仕える。松平清善の子。
※ 天然寺(てんねんじ)- 掛川市仁藤町にある浄土宗のお寺。


同七日 丙戌 寅刻より午時まで雨降り。
       牧野番替り候。松平甚太郎西郷孫九郎に替り候。
       家中、都筑助太夫所振舞い候。

※ 松平甚太郎(まつだいらじんたろう)- 松平家忠。深溝の家忠と名前が同じで紛らわしい。東条松平家第3代当主。東条城を領した。年齢や居城も近く、妹を嫁に迎えて、深溝の家忠と親交が深かった。
※ 西郷孫九郎(さいごうまごくろう)- 西郷家員(いえかず)。戦国時代、安土桃山時代の武将。西郷清員の嫡子。母は酒井忠次の妹か。西郷局は従姉妹。


同八日 丁亥 松平甚太郎所に振舞い候。
       牧野城堀、普請候。

同九日 戊子 牧野新次郎所に振舞い候。
       丑刻より辰時まで雨降り。同普請候。

※ 牧野新次郎(まきのしんじろう)- 牧野成定(なりさだ)、右馬允。三河国牛久保城の城主。このとき、松平甚太郎とともに、牧野定番として詰めていた。一説には、牧野城の名はこの牧野から付いたともいう。

同十日 己丑 牧野定番衆、振舞い候。
       卯刻より巳時まで雨降り。同普請。
同十一日庚寅 卯刻より辰時まで雨ふる。
       松平甚太郎、小性振舞い候。
       同普請。
同十二日辛卯 夜雨降り。同普請候。
同十三日壬辰 雨降り。同普請候。
同十四日癸巳 寅刻より酉時まで大雨降り。
同十五日甲午 普請候。


この後、少しきな臭くなる。戦いが始まるのであろうか。

同十六日乙未 駿河出相より乗馬、二つ出候。
       同普請候
同十七日丙申 同普請候。定番衆ふる舞い候。
同十八日丁酉 同普請候。
同十九日戊戌 辰時より雨降り。駿河口へ働きにて、三河衆浜松まで越され候。
       同普請候
同廿日 己亥 普請出来候。雨降り。
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「家忠日記 一」を読む 12

(庭のコブシの花)

早く咲き過ぎて、この寒さに縮み上っているように見える。三日ほどまえに、弱々しく飛んでいたモンキチョウはどうなっただろう。

午後、駿河古文書会に出席。次々会の当番の資料を提出した。この数日、大変に忙しかったが、一応のけりがついた。

「家忠日記 一」の解読を続ける。

 天正六年(1578)寅七月

家忠は横須賀砦(城)の普請に駆り出されて、横須賀(現、掛川市)に居る。普請には天候が気になるのだろう。雨の記事がその時間も合せて続いている。およそ、何時頃なのか、煩わしいかもしれないが示した。

同八日 戊午 同普請候。酉時(午後六時頃)より雨降り候。
同九日 己未 雨降り大風、酉時より吹く。
       普請候。家康よりふる舞い。
       本田豊後守殿よりもふる舞い。


家康には敬称なしで、本多豊後守には敬称(殿)を付けている。当時はまだ、主君という感覚は薄かったのだろうか。年齢は家康の方が一回り上である。家康は身内というきもちなのだろうか。この辺りの感覚は分らない。年代が進めば敬称も付くようになるのだろうか。

同十日 庚申 戌時(午後八時頃)まで雨降り。風は申時(午後四時頃)まで吹くなり。同普請候。
同十一日辛酉 同普請候。
同十二日壬戌 同普請候。
同十三日癸亥 同普請候。十三日の酉時雨降り。
同十四日甲子 同普請候
       辰時(午前八時頃)まで雨降り。
同十五日乙丑 同普請出来候。


同十六日丙寅 横須賀より吉田(豊橋)まで帰り候。
同十七日丁卯 深溝まで帰り候。
同十八日戊辰 岡崎へ帰り候。
同十九日己巳

同廿日 庚午 越前鶴賀舞へ、幸鶴大夫越し候て舞い候。

※ 越前鶴賀舞(えちぜんつるがまい)- 詳しく調べてはないが、幸若の分家が敦賀にあったというから、幸若舞と同じようなものなのだろうと思う。

同廿一日辛未 夜雨する。午の時(午前十二時頃)夕立有り。
同廿二日壬申 子刻(午後十二時頃)より雨降り。
同廿三日癸酉 夜も雨降り。雨降り、午未時(午後〇時から二時頃まで)雨間有り。
同廿四日甲戌 夜、大雨降り。
同廿五日乙亥 戌亥相(あい)(午後八時から十時頃まで)夕立。ばら/\とする。
同廿六日丙子 午未相、半時程雨降り。
       土呂市相済にて、廿八日の市日立ち候。
同廿七日丁丑 巳時(午前十時頃)より雨降り。
同廿八日戊寅 雨降り。

同廿九日己丑 巳時まで雨降り。御屋敷御祝言候。

二連木戸田新六郎所へ、事也遂げりに、山中に越し候。(この文理解できず。)
※ 戸田新六郎(とだしんろくろう)- 二連木城城主。二連木城は三河吉田城に近く、敵対したり、その支城とされたり、吉田城との関係が深い。戸田康長、後に松平姓を受ける。家忠とは後には、諏訪原城の交替勤番を勤める仲間であった。
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「川崎今平紀功碑」を読み解く

(川崎園裏手に建つ、川崎今平紀功碑)

金谷には漢文碑は数少ない。その一つ、「平口機一郎の碑」が八雲神社にあると知り、先日見に行った。ところがその碑は碑面を下にして横倒しになり、石のテーブルのように置かれていて、碑面を読むことは出来なかった。後日、八雲神社の方に尋ねてみたところ、倒れる危険があったので、そばの木を伐採する序でに、横倒しにした。昔、町の有志が建てるというので、八雲神社で場所を貸しただけなのだが、あとどうするのか、町に聞いても、町は関わっていないと取り合ってはくれない。

言葉が刻んである石碑だから、粗末には出来ない。しかし代が替って、有志の人たちも手が出なくなって、この石碑は今後、どうなってしまうのであろう。八雲神社の方も思案顔であった。

金谷にもう一基、紀功碑がある。川崎園というお茶屋さんの裏手で、同敷地内にあって、ほとんど人の目には触れない。川崎今平氏は川崎鉄工場(現、カワサキ機工)の創業者で、製茶機械を開発し、茶業界に広めた功労者である。その割には大切にされているようには見えず、川崎園に聞いても、碑の内容を理解してはいなかった。

江戸から昭和の戦前まで、人々の功績を永久に残そうと、たくさんの石碑が建てられたが、石碑が朽ちる遥か前に、人々の記憶から消え、石碑のことは忘れられているしまうだろうことを、石碑を建てた人々は想像しなかったのであろうか。

川崎今平氏の紀功碑を以下へ読み下して示す。氏の茶業界に対する功績からすれば、碑文はやや舌足らずに思える。

 紀功碑 正五位勲三等大谷嘉兵衛
※ 大谷嘉兵衛(おおたにかへえ)- 明治、大正、昭和の実業家。製茶貿易業に携わり、「茶聖」と呼ばれた。第2代横浜商業会議所会頭。貴族院議員。正五位、勲三等旭日中綬章。

駿遠の州たるなり、山を負い、海を臨み、沃野遠く闢(ひら)きて、気候温暖、最も茶苑と州人宜しく、多く製茶を以って業と為す。
※ 沃野(よくや)- 地味のよく肥えた平野。
※ 茶苑(ちゃえん)- 茶園。


川崎今平、の金谷人なり。資性明敏、才識群を超え、(つと)機械製茶の利を察す。研鑚積年、遂に能く製茶機数種を発明す。多く改良する所、民頻(すこぶ)るこれを便じ、遠近争い購(あがな)い置きて、茗茶を二州の産物の大宗と為す。何其(なんと)盛んなり。
※ 遠(えん)- 遠州。遠江国
※ 夙に(つとに)- ずっと以前から。早くから。
※ 二州(にしゅう)- 駿遠。駿河と遠江の二つ。
※ 大宗(たいそう)- 物事の初め。おおもと。
※ 何其(なんと)- なんとまあ。


大正十一年二月一日病没、享年五十六。頃者、郷人胥議し、不朽の君の名の為、余に文を請い、余以って、君の事業、国益に関す故、喜んでその功を紀す為に、労を云う。
※ 頃者(けいしゃ)- このごろ。近ごろ。
※ 胥議(しょぎ)- 皆んなで相談すること。


大正十四年九月
    帝国大学教授文学博士塩谷温
    榛原郡茶業組合長伊藤仙太郎書
※ 塩谷温(しおのやおん)- 日本の漢学者。東京帝国大学名誉教授。
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「家忠日記 一」を読む 11

(散歩道のアフリカン・デージー)

朝、こに冬一番の冷え込みで、車、庭、茶畑など、霜で真っ白だったとか、9時起床では、燦々の日差しにすべて消えていた。

午後、掛川古文書講座に出席する。河合重蔵の手になる「上張村記録」を読む。予習したものの、時間が少なく、文字の癖がつかめず、内容はそれほど難しいものではないのに、読み違いが予想外に多く、まだまだだと思う。

「家忠日記 一」の解読を続ける。

 天正六年(1578)寅六月

同十六日丙申 夕立候。岡崎へ帰り候。長井蓮かんにて、土呂へより候。
同十七日丁酉

同十八日戊戌 水野惣兵衛殿ふる舞候。

※ 水野惣兵衛 - 水野忠重(みずのただしげ)。徳川家康の叔父にあたり、徳川二十将の一人に数えられている。

松平伊豆殿ふる舞い候。

同廿日 庚子 知行方勘定候。
同廿一日辛丑 同勘定候。

同廿二日壬寅 酒井左衛門尉、岡崎越され候。
同廿三日癸卯 同左衛門尉所へ浜松より、来る朔日、普請越し候へし由、申し来り候。
  水野宗(惣)兵衛殿、われら所へ越され候。

同廿四日甲辰 山崎水野藤次殿より、女房衆いんしん(音信)越され候。

※ 水野藤次(郎) - 水野忠分。家忠は忠分の娘を妻としている。

同廿五日乙巳
同廿六日丙午
同廿七日丁未
同廿八日戊申 くしもと法庵へふる舞いにて越し候。小美へ川がりに越し候。

※ 小美 - 岡崎市小美町。

同廿九日己酉 日に半時程、夕立ばら/\と仕り候。

同晦日 庚戌 浜松普請に、岡崎より深溝まで越し候。


 天正六年(1578)寅七月
 七月小
一日  辛亥 二川まで立ち候。
同二日 壬子 遠州浜松まで立ち候。
同三日 癸丑 横須賀砦場まで立ち候。

同四日 甲寅 砦普請候。家康より、ふり(刀剣)を給わり候。

※ ふり - 刀剣の数え方。

同五日 乙卯 同普請候
同六日 丙辰 同普請候。尾崎金三郎、かなくらにて、もゝ(股)をつき候。

同七日 丁巳 同普請候。上方山岡半左衛門が使い帰られ候。
       播磨、神吉(かんき)の城、上介殿、組はぜめにて、
       龍川美濃三人衆明知五郎左衛門せめられ候。
       この方衆、手負い多く候。瀧川殿も手負われ候。

※ 上介殿 - 織田信忠。信長の嫡男。官位が秋田城介で、城介殿と呼ばれた。
※ 龍川 - 正しくは「滝川」。滝川一益。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田信長の家臣。織田四天王の一人。
※ 美濃三人衆 - 稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就の三人。
※ 明知 - 明智光秀。
※ 五郎左衛門 - 丹羽長秀。
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「家忠日記 一」を読む 10

(庭の白いビオラ)

駿河古文書会の自分の当番の解読をしていて、面白い事を発見した。

事の起こりは、江戸へ荷を運んだ、摂州今津の千石船が、江戸からの帰りに「返り酒」を運ぶと解読したが、下り酒は江戸では大人気で、摂州今津といえば、今の西宮市の港、つまり灘の銘酒の積出し湊であった。酒を積みだすことはあっても、江戸で出来た酒を持ち帰っても商品価値があるとは思えない。

読み違いだろうか、と何度見直しても、間違いない。そこで、ネットで「返り酒」を検索してみた。「返り酒」ではなかったが、「戻り酒」で面白い記事に当った。江戸時代、上方の酒を船に積み込んで、江戸まで行き、江戸に下さずに持ち帰る。行き帰りにお酒は熟成して、旨い酒になる。これを「戻り酒」と言って、上方で大変に珍重された。別名、「富士見酒」と呼ぶ。

つまり、途中の駿河で富士山を見て来たお酒としゃれたのである。船で送る以前には、「富士見酒」のために、馬の瀬に酒樽を乗せて、東海道を富士山の見える駿河まで往復していたというから、面白い。現代と物の価値観が全く違うことに気付く。約70年も人間やってきて、ここに至って耳新しいこと知る。まさに古文書解読の醍醐味であろう。

「家忠日記 一」の解読を続ける。

 天正六年寅六月
 六月大
一日  辛巳 城へ出仕候。夜より雨ふる。
       鵜殿八郎三郎所へ越し候。

同二日 壬午 雨降り、城小姓衆越され候。
       松太郎左衛門所へ振舞いに越し候。

※ 松太郎左衛門 - 松平太郎左衛門。三河国の豪族・松平氏の庶宗家。別名に松平太郎左衛門家。当時は松平由重、七代目当主。

同三日 癸未 雨降
同四日 甲申 雨降
同五日 乙酉 蔵を作らせ候

同六日 丙戌 成瀬殿は、信康鷹匠衆こされ候。

※ 成瀬殿 - 成瀬正一。成瀬正頼の次男。三方ヶ原の戦いで兄成瀬正義が戦死の後、家督を相続。

同七日 丁亥 和屋新は松平紀伊守きられ候て、我ら所まで越し候。

同八日 戊子 深溝会下に心ざしにて越し候。

※ 心ざし - 追善供養。

同九日 己丑 永良へ堤つか(築)せ候。
※ 永良へ‥‥ - 五月十三日の記事に「ながら堤、七、八間切れ候。」とあり。その補修。

同十日 庚寅 境、築せ候。
同十一日辛卯 同境、築せ候。
同十二日壬辰 中嶋、境、築せ候。
同十三日癸巳 同境、築せ候。
同十四日甲午 同境、築せ候。
同十五日乙未 同境、築せ候。

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