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「家忠日記 一」を読む 7

(「駿遠の歴史と考古学」講座風景)

午後、「駿遠の歴史と考古学」講座に出席した。今日のテーマは富士塚と富士講の話で、世界遺産になった富士宮の村山浅間神社にある、金谷の金龍講が奉納した石灯籠と石碑が取り上げられた。その石碑の方は、自分も村山浅間神社で見た記憶があった。

刻まれた文面を追跡してみたが、「金龍講」について、何も解らず、いずれも推定の話に終わった。どこかの古文書に出てくる可能性もあり、今後の課題とされた。

最後の質問で、富士人穴遺蹟の質問が出た。自分も聞いてみたいので、来年度にテーマにしてほしいと願った。諾の返事に、来年度が楽しみになる。

夜、近所の班新年会があった。35軒中、出席が29軒である。高齢化が進み、16班が出来て40年にもなるだろうか。班の通りは定年通りから、年金通りになり、さらに間もなくと‥‥、と冗談も出る。8時にはお開きになった。酒量も随分減ったようである。

「家忠日記 一」の解読を続ける。

 天正六年(1578)寅三

 三月大
一日  壬子 同普請候。浜松より御陣触れ候て、普請止み候。

※ 陣触れ(じんぶれ)- 出陣の命令。

浜松より陣触れが来たというから、家忠らは浜松城の普請をしていたわけではないと解った。昨日の自分の見解は間違っていた。ただ、今度は岡崎城の新城ではないかとの疑問が湧いた。いずれ、どこかで整理して、解釈してみたいと思う。

武田との戦いの推移をみると、家康は、守勢から攻勢へと立場を転じたようにみえる。
  天正六年(1578)三月九日  - 家康の兵が武田方の支城・田中城を攻める。
              三月十日  - 家康は、牧野城(諏訪原城)に入る。
              三月十三日 - 武田方の小山城を攻める。
              三月十八日 - 牧野城の修築を行い、浜松城へ戻る。
              五月四日  - 再び田中城を攻める。

同二日 癸丑 雨降り候。

(三日甲寅) 浜松より陣触れ越し候て、深溝(ふこうず)へ参り候。

四日 (乙卯)五左衛門所に、祖父大炊助二十三年の心ざし候。

※ 五左衛門 - 松平近正(ちかまさ)のこと。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。松平親清(近清)の子。
※ 大炊助(おおいのすけ)- 松平好景。戦国時代の武将。松平忠定の子で深溝城主。家忠の祖父。23年前に戦死。
※ 二十三年の心ざし - 23回忌のこと。


同五日 丙辰 二川まで出陣候。

同六日 丁巳 浜松まで立ち候。

同七日 戊午 懸河(掛川)へ出陣候。
同八日 己未 懸河より大井川の端に陣取り候。
同九日 庚申 駿河、田中の城へ働く。
         外曲輪を破り、手前も敵二人討‥‥佐野孫助、行家彦十郎討つなり。


家忠の討った敵二人が、佐野孫助と行家彦十郎と解読して、ネットに出ている。ところが「佐野孫助」はこの後、天正9年の1月24日、高天神城包囲中の家忠陣所に於いて、刃傷沙汰に及び陣から逃亡したという記事が、「家忠日記」に出ているという。つまり、佐野孫助と行家彦十郎は敵勢ではなく、家忠の家来であったから、敵勢とは真逆であることが解る。一部記事が破れて欠けているので、そんな誤解があったようだ。
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