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4月16日、雨降りに室戸へ歩いた日

(にぎやかな飾りの東洋大師/明徳寺)

4月16日、この日は朝、宿を出るときから雨で一日止み間無く続いた。前回に泊まった宍喰の町で、休憩舎を見つけて、しばらく雨宿りしながら休憩しようと立寄った。先客が居て、昨夜から泊まっている野宿の男性遍路が寛いでいた。雨が降り続いているので、出発できないでいる。ここにもう一晩泊まろうかと思っているという。

野宿遍路は宿の心配がない分、雨での停滞を苦としていない。こんな雨降りの日はそんな自由がうらやましくもある。野宿が出来ない自分はどんなに雨が降っても、予約した宿までは歩かねばならない。

阿波から土佐への国境は、再び歩き始めてすぐに入った、水床トンネルである。その出口直前で、立ち止まってメモ帳に何やら記入している男性遍路がいた。雨の中でメモれない分、ここで記入しているらしい。声を掛けて先に行った。

甲浦(かんのうら)の町への分岐で、遍路シールは国道ではなく、町の方を示していた。少し迷ったが、今回は町の方へ向かった。どこを歩いても避けられない雨なら、人が住む町の方が軒先もあって安心な気がした。後を来るトンネルの男性は高架の国道を進んだらしく、一時、姿が垣間見えた。甲浦漁港の舟だまりの脇を通り、途中で郵便局にも立ち寄り、それなりに用を済ませた。

国道に合流すると、次の目標は東洋大師(明徳寺)である。そこで、宿お接待のおにぎりをいただこうと思った。遍路案内立札には随分手前から東洋大師の名前が出ていた。もうそろそろかと思いながら歩く、雨降りの道は遠い。「ひとり歩き」地図もザックに仕舞ったままで、確認ができない。途中で心配になって道を尋ねたりしながら、東洋大師までずいぶん時間が掛かった。

東洋大師のある町は野根という。「野根まんじゅう」はこの辺りでは有名らしい。昔は野根大師と呼ばれていたものを、合併で東洋町になったので、東洋大師と改名したと聞いた。古いことを大切にするお寺にあって、そんな発想をする寺に少し興味があった。

狭い境内には様々なものが置かれ、本堂にも所狭しと御札やら御守りやら様々なものが並んでいて、自分には少し近づき難いお寺であった。雨の中、住職は本堂でお勤め中で、僧衣の背中が見えた。軒先で勤行後、納経帳をお願いしようと思ったが、お勤めが容易に終わらず、通夜堂に入って昼食をいただいた。板の間に茣蓙が敷かれ、無料で宿泊出来るようであった。

昼食を済ませたが、お勤めはまだ続いていた。そんなときのために納経印を半紙に押して準備されたものをいただき、東洋大師を後にした。パンフレットに写った大柄な住職は一見近寄り難いところがあるが、のちに通夜堂に泊まったことのあるお遍路さんが、大変親切にしてもらったと言っていた。人は見かけで判断してはならない。出来れば少しお話してみたかった。

東洋大師のパンフレットによると、ここから24番最御崎寺までは、大正時代まで道が無く、海岸沿いの足場が悪いところを歩いて行った。満潮になると通れなくなるから、お遍路さんは野根で昼寝をして、翌早朝に野根山を越えて行ったという。そんなことから、東洋大師は「野根の昼寝」といわれ、その当時から無料宿泊の通夜堂があったらしい。現在は平らな車道が延々と続く遍路道だが、車道が出来る前はどこを通ったのか、調べてみたいと思った。
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