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5月3日、前半最後の日、宇和島まで

(馬目木大師)

ロンドンオリンピック開会式前のサッカーの予選リーグで女子がカナダに2対1で勝ったのに続いて、男子がスペインに1対0で勝利した。歓喜、歓喜! 幸先よい日本チームのキックオフである。

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5月3日、小雨の降る中をてんやわんやの大畑旅館を出た。宇和島までの今日の行程は、真っ直ぐに行けば15キロほどしかなく、午前中早い内に着いてしまう。そこで昨日雨で断念した満願寺へ往復してくることにした。

満願寺は岩松から岩松川を遡って東へ3キロほど入った所にある。雨が降る境内は人気(ひとけ)がなくてひっそりとしていた。勤行を済ませ、納経印はもらえそうに無かったので、早々に後にした。

案内板に県指定の天然記念物「二重柿」があると記されていた。弘法大師が巡錫(じゅんしゃく)の途中、杖を立てられたものが根を下したと伝わり、柿の実の中に柿の実が、柿の種の中にも柿の種が出来る、変わった柿で、別名、「子持ち柿」と呼ばれている。子宝に恵まれるという縁起物として、干し柿の希望者が多いというが、今では柿の実はわずかしか実らないらしい。境内にあるはずの柿の木は見つけられなかった。

国道56号線まで戻る岩松川沿いの道は、雨混じりの風があり、菅笠を手で押えながら、大変歩き辛かった。そんな中を、先を行く男性を見かけた。傘を差し手ぶらだから、お仲間ではなく、地元の人だろうと思った。足はなかなか達者のようで、追い付けそうで追い付けない。自販機へ寄ったから、何か買うのかなと見ていると、お釣りの返却口を探り、何事も無かったように道に戻り歩き続けた。そんな風体には見えなかったのに、本人は当然の権利というように堂々として、見ている方がショックな光景であった。

国道に戻ってコンビニに入った。パンと牛乳を購入して、レジに持って行くと、若い女店員が勘定をしながら、何も聞かないのに、トンネルの手前に遍路小屋があって休憩が出来る、と案内してくれた。これは、コンビニのローカルマニュアルなのだろうか。いつか誰かに聞かれて、彼女なりに考えたお接待だと思いたい。いじわる爺さんは、コンビニで、時々マニュアルに無いことを聞いて、マニュアル崩しをすることがある。

松尾トンネルの手前、左手上に、壁にマンガが描かれた遍路小屋があった。この遍路小屋は周囲に壁があり、扉がついていて、宿泊も出来るようだ。遍路小屋の脇を抜けて標高220メートルの峠を越える遍路道があるが、今日はトンネルを歩いた。トンネルの先に、3年前には、トイレ付の休憩所があったはずだが、痕跡すら無くなっていた。

国道沿いのセルフのうどんで昼食をとり、宇和島の町に入った。国道から遍路シールに導かれ、遍路道をたどる。逆打ちのお遍路がすれ違いながら、タクシー会社の角を右手に行くようにと、この先の遍路道を教えてくれた。

目標にしていた馬目木大師の大師堂は、住宅地の中に身を縮めるようにしてあった。馬目木(まめき)はウバメガシのことで、マメの木ではない。案内板によると、弘法大師が開かれた九島鯨谷の願成寺(鯨大師)は、40番観自在寺の奥之院とされたが、離れ島で巡拝に不便であった。弘法大師は九島へ渡る渡し場に遥拝所を設け、これに札を掛けよと、馬目木(ウバメガシ)の枝を立てた。それが根付いて葉が茂るようになった。

現在もそのウバメガシが残っているというが、脇に立ったイチョウの木ばかりが目立って、見逃した。九島は宇和島港を出てすぐの島で、往時は馬目木大師の所まで海が入り込んでいたようだ。

最後に別格6番龍光院を打った。駅のそばで、宇和島城の山に対面する山の中腹にあった。天気はすっかり回復して日差しが強く、勤行の後、小さな木陰で休んだ。年配の夫婦や、二人の幼児を連れた若い夫婦がお参りに来るのを見ていた。世の中は、今日はゴールデンウィークの真ん中の祝日である。

龍光院は元和元年(1615)宇和島藩の初代藩主、伊達秀宗が、宇和島城の鬼門に当たるこの場所へ、鬼門の鎮めとして建立した。寛永8年(1631)九島の願成寺は巡拝に便利なようにと、先ほど通った馬目木大師の地に移され、元結掛願成寺と呼ばれ、観自在寺の奥の院とされていたが、明治になって龍光院に合祀され、大師堂だけが、馬目木大師として地元に残された。従って、現在は龍光院が観自在寺の奥の院である。
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