goo

明治の大井川川越し その4

(観勝寺の紅梅)

朝、女房にせかされて、息子と3人でお墓参りに行く。明日から上の娘の出産で、女房は名古屋に出かける。無事出産を祈ってのお参りなのだろう。昨日の未明からの大雨を引きずって、昨日一日雲が厚かったが、今朝は快晴で杉の花粉日和である。そろそろだと思って、ベニフウキを飲み始めている。

    *    *    *    *    *    *    *

「明治の大井川川越し」も今日を最終回とする。大井川渡船が始まると、次に欲しいのは橋である。橋があれば自由に行き来できる。渡船が開かれてから2年半して、冬場だけの限定で大井川に仮橋が架けられた。

明治六(酉)年十一月、林浜松縣令殿より仰せ付けられ候。大井川渡船の処、毎年十一月一日より来三月三十一日まで掛橋を仰せ付けられ候に付、達し請け候。


それまでも、大きな通行があるときには仮橋が架けられることがあったが、これは季節限定ながら橋を架けることを許すというものである。当然地元からの要望に応えたものである。冬の季節に限定したのは、渇水期で橋が簡単に架けられるためで、そのまま置くと雪解けなどの増水で流されてしまうのであろう。

賃銭の御高札、左の通り写し。

毎年十一月一日より三月三十一日まで大井川仮橋を差し免じ候条、左の通り賃銭を相払い通行致すべきものなり。
  浜松縣
 大井川仮橋賃銭
一 金壱銭    人壱人
一 金弐銭    垂、山駕籠一挺
一 金壱銭五厘  両掛片持とも一揃
一 金三銭    乗馬一疋口付とも
一 金四銭    長持駕籠一挺
一 金三銭    引戸駕籠一挺
一 金三銭    差長持一棹
一 金五銭    大長持一棹
一 金五銭    本馬一駄
一 金三銭    雑衆一疋
  右の通り
 右の令を掲げ、令を示すものなり。    明治六年十二月十五日

※「本馬」-江戸時代、宿場に置いた荷物を運ぶ馬。
※「雑衆」-「一疋」とあるから、牛などの家畜であろうか。

二月上旬より当駅に人力車を開く。もっとも下りばかり。手前も金五拾五円にて人力車三挺を求むる。


渡船と同時に許された人力車が明治七年になって漸く金谷宿でも実現したという記事である。筆者の松浦幸蔵氏も人力車三挺を求めた。人力車のオーナーになったということなのだろう。この場合上りはまだ京都方面で、下りは東京方面だろうか。西へは金谷坂があり、東へは大井川がある。中山車道が出来るのは明治13年まで待たねばならないし、渡船にも仮橋にも人力車の料金の記載がない。人力車を使えたのは宿内だけだったのだろうか。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )