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大井川の渡船と通船その4

(早くも花を付けた庭のサクラソウ)

「大井川通船の嘆願書」と「大井川通船差止の嘆願書」この2通の嘆願書が出る一ヶ月の間に、靜岡藩役人と地元島田宿、金谷宿の関係者、地方役人、川方役人との間で話し合いがあった。通船を日延べするようにという地元と、靜岡藩は合意出来ないまま、大井川通船は決定される。しかし、船がまだ無いから通船が始まることにはならない。

ここへ出てきたのが、今村喜左衛門孝本という男である。今村孝本は幕末の水戸の尊王攘夷派が起こした天狗党の乱に参加し、那珂湊の戦いで敗れて戦線離脱、遠州の光明山に居た。靜岡藩中泉物産方(製塩方から名前が変わる)の松岡萬はどういう結びつきがあったのか、今村に大井川通船の実行を委嘱する。今村は天竜川から船を回して、明治三年五月五日、大井川河口から川越しの本道を三艘の船で突破して、横岡村まで着け、大井川通船の既成事実を作った。

「今村孝本略伝」からその部分を抜き出し、書き下したものを次に示す。
‥‥しかして孝本、半兵衛同道川尻村(現吉田町)に行き、三艘の船に上乗をなし、引かせて遡ること二里、時に夜の三更、谷口村に憩う。たまたま聞く島田・金谷の者ども八百人、船の通るを待ち、到らば打毀(こぼ)たんとその設けあると、水主ども恐怖せり。
 ※「三更」-およそ現在の午後11時または午前0時からの2時間をいう。子(ね)の刻。
孝本等もまた覚悟を極め、事起らば腕力を試さんと、すなわち刀の目釘を湿し、五更谷口村を出立、暁に島田・金谷の間を登るに、番人の焚き残したる火未だ消えず。実に危うき所というべし。また遡ること一里余、横岡村に着す。同じく物産方手付、村松庸三郎その村に来り迎するあり。ともに船のつつがなくその地へ至りたるを賀す。
 ※「五更」-およそ現在の午前3時から午前5時、または午前4時から午前6時ころにあたる。寅(とら)の刻。

この三艘の船の就航が突破口となり、早くも五月八日には「大井川通船差止の嘆願書」は取下げられ、大井川通船は一気に進むことになった。

今村孝本は物産方で船10艘を購入し、合計13艘の船に水主50余人で、横岡村と神座村に会所を置いて、川根筋への通船の営業を開始した。しかし、物産方は翌年の廃藩置県で靜岡藩が無くなるとともに廃止され、今村孝本は船を荷主に払下げ、自分は神座小学校の教師になった。

「歳代記」は通船差止側の立場で記されており、通船については簡単に記すだけで、記事は大井川渡船について詳しい。1月28日から2月1日の書込み「明治の大井川川越し」参照。
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