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「竹下村誌稿」を読む 225 行政改革 1

(散歩道のピンクのキョウチクトウ)

暑さに強いはずの夾竹桃も、この暑さには、ややしおれ気味に見える。

午後、「駿遠の考古学と歴史」講座に出席した。ST先生に、南部センターの次回の解読文を渡す。まだ2ヶ所ばかり解読出来ていないが、あと二週間あるから、何とか解読したいと思う。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

      第六節 行 政 改 革

往昔、磐田の国府(和名抄、磐田郡豊国郷、訓、止与久爾とよくに)と称し、今の見附町に遠江の国府ありて、この国を統轄したりしが、政権武門に移りし以来、幾多の変迁(変遷)をなし、室町時代の末葉に至りて、中央の政令行なわれず、天下の鼎沸して殆んど統一する所なく、永禄、天正の間(1558~1593)、武田信玄、徳川家康、この国に対戦し、国内寧日なかりき。
※ 鼎沸して(かなえふっして)- 鼎の中の湯が沸き返るように、物事が混乱して騒がしいさま。
※ 寧日(ねいじつ)- 穏やかで無事な日。安らかな日。


天正十年(1582)、武田勝頼の滅ぶる。本国、徳川氏に帰す。同十八年(1590)、北条氏政の亡する。豊臣氏、徳川氏を関左八州に移し、堀尾、有馬、山内の三氏をこの国に分封す。山内氏、東遠六万石を領し、掛川に在り。本村及び付近の村落、志戸呂、横岡、大代、金谷など、皆なその領内たり。
※ 関左八州(かんさはっしゅう)- 「関左」は関東のこと。関八州。江戸時代、関東の八ヶ国の称。相模、武蔵、上野、下野、安房、上総、下総、常陸をいい、現在の関東地方に当たる。

この時、中村一氏、駿河十四万石を賜り、駿府に治す。牛尾山を切り開き、大井川を山東に通したるは、同氏の手に成功せりと云う。その後、竹下、牛尾、嶋、番生寺、横岡新田、及び金谷河原の開拓あるに至れり。

慶長庚子(慶長5年、1600年、関ケ原の戦い)後、天下の実権徳川氏に帰するや、堀尾、有馬、山内三氏を転封し、親しき所を浜松(松平忠頼五万石)、横須賀(松平忠政六万石)、掛川(松平定勝三万石)に分封す。これより先、中泉に代官所を置き、伊奈忠次代官たり。

この年、忠次、国命を請けて、田圃の境界を丈量し、本郡の図藉を修せりという。因って云う。忠次は熊蔵と称し、徳川氏に仕え、専ら民政に任じ、循吏の称あり。従五位下に叙し、備前守に任ず。子孫相継ぎ代官となり、令名を伝う。
※ 丈量(じょうりょう)- 田畑などの土地の広さを測量すること。
※ 循吏(じゅんり)- 規則に忠実で仕事熱心な役人。
※ 令名(れいめい)- よい評判。名声。
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