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「竹下村誌稿」を読む 220 竹下村 80

(散歩道のタカサゴユリ)

洗濯機が故障し、今日、メーカーのサービスセンターから来たが、モーターの型式が違ったと言い、明日また来ると、帰った。

「天澤寺殿三百年記録」の解読を、一日していた。いよいよ難物の、年忌に出す食事の献立に入り、悪戦苦闘している。全てを解読するのは難しいかもしれない。ただ、この解読をもとに、来年再現をしてみるらしく、誤読をすれば、とんでもない料理が出来てしまいそうで、怖い。しかも、テレビ取材も入るらしいから、なおさら責任重大だ。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

(明治)十三年十月二十六日、榛原、佐野、周智の各郡に亘り大雹(ひょう)あり。秋獲(秋の収穫)皆無となる。この日午前三時より轟々(ごうごう)たる雷鳴とともに、閃電止まず。四時より、東北の烈風を起して、。降雹十五分間、甚大なるは直径一寸五分、重さ五十目、小なるも直径五、六分あり。堆積すること二、三寸、瓦を破り、枝を折り、野禽(たお)れ、農産物の被害少なからず。黄熟せる稲穂は悉く打ち落し、一粒を残さず。本村被害もっとも甚だしく、地主としては殆んど小作米を収めたるもの少なくて、依て田租は十ヶ年分納となる。
※ 閃電(せんでん)- ひらめく電光。稲妻。
※ 野禽(やきん)- 野原や山にすむ鳥。野鳥。


されど、小作人中には落穂を拾い取りたるものは、非常の手数を要したれども、平年に譲らざる収穫ありしものもありしと云う。童謡に、

  お雹さん、私の代にも、もう一度、孫子の代にも、二度も三度も

と云うにても知るべし。按ずるに、昔より大なる雹の降りしことは、太平年表に、慶安二年(1649)五月十三日、川越に大雹降る。その重さ、二、或るは四十目とあり。また徳川十五代記に、明和六年(1669)九月二日、京都に大雹あり。大きさ拳(こぶし)の如しとありて、その例に乏しからずと云うべし。
※ 斤(きん)- 一斤=600グラム。

この年、諸物価大いに騰貴し、米一石の価、拾円余となる。蓋し西南の役、不換紙幣の増発に原由せしものなり。依って政府はこれを救正せんとし、年々紙幣の銷却に務めしかば、同十六、七年の頃に至りては、金融必迫を感じ、物価旧に復し、米価の如きも、一石五円五拾銭内外となる。
※ 原由(げんゆ)- 事の起こり。みなもと。原因。
※ 銷却(しょうきゃく)- 償却。借金などを返すこと。


同十七年六月、県の達しにより、町村組合を定め、七月本村及び、高熊、福用、神尾、横岡、横岡新田、牛尾、嶋、番生寺、志戸呂、大代の十一村組合役場を、本村に置き、竹下村組役場と称し、幾らもなく竹下村外十ヶ村役場と改む。この時、渡辺真一戸長(官撰)を拝命せり。

同年九月十五日午後四時、暴風雨あり。村内半潰家数戸ありて、備蓄儲蓄法により小屋掛け料の救助を受くるに至る。田畑の作物約二割を減ず。
※ 備蓄儲蓄法(びちくちょちくほう)- 明治13年(1880)に出来た、災害救助法。政府が財源を拠出して、災害時の食糧供与、小屋掛け料、農具や種もみ料などの救助を行う。
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