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「竹下村誌稿」を読む 242 駅路 13

(散歩道のヤブラン)


「竹下村誌稿」の解読を続ける。

かの藤原為家の百首歌に、

  打ち渡す 河瀬あまたの 大井川 見えてぞ速き はつくらの山

と詠みたるも、その頃のことなり。それより十八年を経て、仁治三年(1242)八月、光行の子、親行のものとせられたる、東関紀行に、

小夜の中山は、古今集の歌に「横ほりふせる」と詠まれたれば、名高き名所なりと聞き置きたれども、見るにいよいよ心細し。北は深山にて、松杉嵐烈しく、南は野山にて、秋の花露しげし。谷より嶺に移る道、雲に分け入る心地して、鹿の音、涙を催し、虫の恨み、哀れ深し。
※ 横ほりふせる - 横たわり伏せる。

  踏み通う 峰の梯(かけはし) とだえして 雲に跡とう 佐夜の中山

この山をも越えて、なお過ぎ行く程に、菊川と云う所あり。(い)にし、承久三年(1221)の秋の頃、中御門中納言宗行と聞えし人の、罪ありて東へ下られけるに、この宿にとまりけるが、

※ 去にし(いにし)- 過ぎ去った。

  昔は南陽縣の菊水、下流を汲んで齡を延ぶ。今は東海道の菊川、西岸に宿して命を失う

「全命」か「失命」か。海道記は「全命」、東関紀行は「失命」となっている。どちらが正しいのか。海道記の源光行は柱に書かれた文字を実際見ており、東関紀行では焼けてしまい、見ることが叶わなかった。ここは実際に見た方に軍配を上げたい。菊水で「齡を延ぶ」のだから、菊川でも「命を全う」出来るのでは、との淡い期待を漢詩にしたのであろう。菊川で命を失ったと語るのは、後の人の語り口だと思う。実際には、この先、駿河の藍沢で処刑されてしまうのだが、鎌倉で弁明して、何とか助かりたいという願望を持っていたと考える方が、人間らしい。

と、ある家の柱に書かれたりけりと聞き置きたれば、いと哀れにて、その家を尋ぬるに、火のために焼けて、かの言の葉も残らずと申すものあり。今は限りとて、残し置きけん形見さえ、跡なくなりにけるこそ、果敢(はか)なき世の習い、いとゞあはれに悲しけれ。

  書きつくる 形見も今は なかりけり 跡は千歳と 誰か云いけん


菊川を渡りて、幾程もなく一村の里あり。こまば(駒場?)とぞ云うなる。この里の東のはてに、すこし打ち登るようなる奧より、大井川を見渡しければ、遥々と広き河原の中に一すじならず、流れ分れたる川瀬ども、とかく入り違いたる樣にて、すながしという物をしたるに似たり。中々渡りて見んよりは、よそ目面白く覚ゆれば、かの紅葉、乱れて流れけん、龍田川ならねども、しばし安らわる。
※ すながし(洲流し)- 砂浜の波跡や水の流れを連想させる文様。州流れ。

  日数ふる 旅の哀れは 大井川 渉らぬ水も 深き色かな

前島の宿を立ちて、岡部の今宿をうち過ぐる云々。

とあり。この時も同じく、初倉より前島に移りたる事は、自(おの)ずから知らるゝものゝ如し。されば、前島は宿として、藤枝は市として、小川に代わりて街道たりしなり。
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