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那智の旅-青岸渡寺の三重塔

(青岸渡寺の三重塔と那智の滝)

那智大社の隣りが西国三十三所観音霊場の第一番札所の那智山青岸渡寺である。熊野三山の次は西国三十三所観音霊場である。つくづく日本人は数をそろえるのが好きなのだと思う。読みもしない○○全集を買ったり、東海道五十三次を歩いたり、日本百名山に登ったり、そんなのにけっこうはまってしまう。自分もその一人で、色々こだわりを作ってチャレンジしている。たとえば五重塔、三重塔、多宝塔といった層塔に入れ込んでいるのも、本格的な層塔は全国合わせてもそんなにたくさんあるわけではないから、回って回れないことはないと思うからである。

那智山青岸渡寺の本堂には如意輪観音が祀られている。4世紀ごろ、インドから熊野の海岸に漂着した裸形上人が、那智の大滝にうたれて修行し、滝壺から出現した黄金色に輝く観音仏を、滝のそばに小堂を建てて祀ったのが、青岸渡寺の始まりだという。

     補陀洛や 岸うつ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬

法事などにご近所が集まって上げてくれる御詠歌の最初が上記の青岸渡寺の御詠歌である。「補陀洛」「岸」「三熊野」「那智のお山」「滝」と、まさに海岸から上って那智の滝に至るコースを三十一文字に上手く詠み込んでいる。

   (注)補陀洛(ふだらく)-インドの南海岸にあり、観世音菩薩の住所という山。補陀落浄土。
   (注)三熊野(みくまの)-熊野三社の別称。


本堂(如意輪堂)の前に巡礼のお年寄りが写真を撮るとか撮らないで騒いでいるのを横目に、ああっ、お参りを忘れて、朱色に塗られた三重塔と那智の滝が並列して見えるビューポイントに足を進めていた。前回はそこで写真を撮って引返したが、今日は滝のそばまで行きたいと思い、滝との中間にある三重塔に向かって降りていった。青岸渡寺の三重塔は1581年(天正9)焼失したものが、1972年(昭和47)に400年ぶりに再建された。高さ25メートル、一辺の長さ5.35メートルの朱色も鮮やかな三重塔で、拝観料が掛かるが三層まで登れる。


(青岸渡寺の三重塔)

石垣を積み石段で登る高台に土台となる基壇部を造り、その上に三重塔を載せた様式になっていて、三重塔なのだが、随分高く見える。おそらくは青岸渡寺の本堂から三重塔と那智の滝のバランスの良い眺望を考えて、三重塔を高くしたかったのだろうと思った。下世話に言えば三重塔に下駄を履かせたのである。
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甲斐国分寺の七重塔跡

(甲斐国分寺の七重塔跡)

寺本廃寺から引返して、旧一宮町国分の甲斐国分寺跡に行く。甲斐国分寺は小高い緩斜面にある。甲斐国分寺の手前の道端に、発掘も終わり芝生が植えられて公園化している国分尼寺の跡があった。といっても礎石が点々と並んでいるだけのものである。国分尼寺跡が残っているのは全国的にも珍しいという。国分寺跡も含めて国の史跡に指定されている。

500メートルほど進んだ、一昔前は畑だった一郭に、奈良時代に創建された甲斐国分寺の伽藍の跡があった。昔の国分寺の金堂のあった辺りには、最近まで名前も同じ甲斐国分寺という臨済宗のお寺が建っていた。最近、発掘作業のために周辺にあったお墓も含めて300メートルほど離れた地へ解体移設された。発掘の後は公園化するのであろうが、随分思い切ったことをするものである。すでに、発掘が始まっているのか、一帯の地面にブルーシートが張られていた。お寺の庭木や庭石などがまだそのまま残っていて、最近までそこにお寺があったことを示していた。

移転した甲斐国分寺の門辺りから出て左手に50メートルも歩いた所に、甲斐国分寺の七重塔跡があった。塔心礎、四天柱礎石2個、側柱礎石11個がしっかり残っていて、往時の姿を思い起こさせる。甲斐国分寺にはもう一つ塔があったようで、塔心礎が一個残っているというが、探してみたが見つからなかった。

考えてみれば甲斐国分寺が創建された何十年も前に、先刻見てきた「寺本廃寺」の伽藍は出来ていた訳で、往時はこの笛吹市周辺が甲斐国の政治・文化の中心地であったことが想像される。


(移転した甲斐国分寺)

移転した臨済宗の甲斐国分寺に行ってみた。まだ周辺整備の工事中であったが、茶色に塗装された外壁や銅板葺の屋根などお寺の建物というよりも、少し変った地域興しの建築物のように見えた。とても古い建物を移築したようには見えなかった。

   *    *    *    *

以上で22日に一人で出かけた山梨の話は終る。一日のことで書き込みが6回にも及んだ。30日夕方よりソフト会社の二泊三日の旅行で那智勝浦方面に出かける。ブログの書き込みが少し遅れるが、次は多分その旅行に話になるだろう。
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寺本廃寺、三重塔心礎

(寺本廃寺三重塔心礎)

定林寺を後にして、笛吹川を渡り、石和温泉を横切った先に、旧春日居町がある。寺本廃寺の標識に導かれて、車一台やっとの横丁を進めると、住宅の裏側の畑の中に山王神社という村の神社がある。この辺り一帯に、かつて「寺本廃寺」といわれる寺院の伽藍があった。

三回にわたる発掘調査の結果、伽藍の配置や大量の古代瓦などの様式から、今からおよそ千三百年前の白鳳期(7世紀後半)に創建された甲斐国最古の寺院の一つであることが判明した。しかし寺名の手がかりもないので、地名を採って「寺本廃寺」と呼ばれている。考えてみれば「寺本」という地名の中に、過去のお寺があった痕跡を見られる。

三重塔塔心礎は山王神社に出る手前の住宅に隣接する小公園に置かれていた。塔心礎は塔の中心に置かれた土台の石材で、その上に心柱が立った。柱が納まる窪みや仏舎利が納められた穴が穿たれている場合もある。塔跡では上面を出して大部分が地中に埋まっているが、寺本廃寺の塔心礎は掘り出されて地上に置かれている。発掘時の地図によると往時の三重塔も塔心礎の置かれた小公園の位置にあったようだ。

三重塔塔心礎の案内板によると、
寺本廃寺は七世紀後半に創建された法起寺式伽藍配置の寺院である。
塔心礎は長径2.8m、厚さ1.3m以上の安山岩自然石で、上面を平坦にして、中心に白鳳期の特徴である二重の円形の穴を掘っている。心柱の土台の石である。
三重塔は仏舎利等を埋納した建物であり、1981(昭和56)年に発掘調査が実施された。その結果三重塔の平面規模は一辺5.4mの木造建築であり、三重の建物と九輪を加えて全体の高さは約二十四mと推定されている。



(寺本廃寺三重塔復元模型)

案内板には、春日居町郷土館にあるという、縮尺5分の1の三重塔復元模型の写真が出ていた。よく見るとこの復元模型は上層より下層の方が少しずつ大きくなっている。この様式は法起寺の三重塔そっくりである。法起寺の三重塔といえば日本最古の三重塔で、様式は飛鳥様式と呼ばれている。伽藍様式が法起寺式だから三重塔の様式も同じと考えたのだろう。

三重塔心礎の小公園の脇に植えられたリンゴの木に、たわわにリンゴが実っていた。
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二子塚、定林寺の五重塔

(定林寺の五重塔)

先週金曜日の山梨の続きである。

定林寺(じょうりんじ)は甲府市の東隣りの笛吹市にある。笛吹市は2004年に、東八代郡石和町、御坂町、一宮町、八代町、境川村及び東山梨郡春日居町の6市町村が合併して発足した。その後、東八代郡芦川村を編入している。甲府盆地のやや東側に位置して、市内には富士川の上流の笛吹川が流れている。

定林寺は「二子塚 慧光山 定林寺」と呼ばれる。旧八代町の役場近くにあった。案内板によると、

文久年間(1264~74)日蓮聖人御巡錫のみぎり、野中の地蔵堂に泊した夜、東方の塚より昇る鬼火に不審を抱き、翌朝村人から「二子を難産死没した平家の落人の妻子の妄執が鬼火となり悩ましている」との仔細を聞いた日蓮聖人は。三日三晩妙経読誦のうえ、これを済度した。このことから村の豪士、早内左衛門は日蓮聖人に深く帰依し、“日林”の名を授与され、己の屋敷を寺にしたのがはじまりという。

定林寺の五重塔は墓地に接していて、墓地のどこからも見上げる位置にあった。

「塔」を辞書で調べると「卒塔婆」のこと。「卒塔婆」を広辞苑で引くと、仏陀の骨や髪または一般に聖遺物をまつるために土石を椀形に盛り、或いは煉瓦を積んで作った建造物。これが中国から日本へと伝えられて楼閣建築と結びつき、日本では、三重・五重の層塔や多宝塔・根本大塔などになった。下世話に言えばお釈迦さんのお墓である。「卒塔婆」のもう一つの意味は供養追善のため墓に立てる、上部を塔形にした細長い板。梵字・経文・戒名などを記す。板塔婆。この意味の方が一般的である。どちらにしてもお墓の印で、お釈迦さんのものは大きくて立派だというだけである。「卒塔婆」は梵語の「スツーパ」を音写したもので、「スツーパ」は「高く顕れる」という意味だという。

だから、塔がお墓のそばにあるのは当然ともいえる。ご先祖のお墓参りに来て、お墓から高く聳えて見える仏陀のお墓にも手を合わせる。何とも心を豊かにする演出だと思う。

定林寺の五重塔は1981年(昭和56年)に落成、屋根は銅板葺きで、柱や軒下の木組みに塗られた赤い彩色が鮮やかであった。
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遠江国分寺の七重塔跡

(遠江国分寺七重塔跡-再現された基壇)

午後から、女房には磐田に行こうとだけ話して二人で出かけた。途中で遠江国分寺の七重塔跡を見たいと話した。「旧東海道夫婦旅」の時には立寄っているのだが、七重塔跡は見なかった。静岡県の現存の塔は見尽くして、過去にあった塔の跡が残っている場所を調べていた。そして、国の特別史跡に指定されている遠江国分寺跡に七重塔跡があったことを知った。


(府八幡宮随身門)

遠江国分寺跡の向かいにある府八幡宮の駐車場に車を停めた。まずは府八幡宮にお参りした。七五三のお参りの親子がちらほら見える。最初に建つ随身門は木組みが塔に見るように複雑に組み上げられ、左右の仁王像が収まる空間に衣冠束帯の二神の像が収まっていた。その二神の口も仁王像のように左右で阿吽(あうん)の形をなしていた。

奈良時代、天平13年(741)に、聖武天皇によって、国状不安を鎮撫するため全国に国分寺と国分尼寺を建立する詔(みことのり)が出され、遠江国分寺も建設が計画された。遠江国分寺・国分尼寺を、古代「大之浦」を望む景勝地に、両寺の金堂・講堂の建物の中心線を合わせて、国分寺の北側約200mに国分尼寺を配したという。お参りした府八幡宮も国分寺と同じ頃創建されたと伝わる。以上は案内板による知識である。

遠江国分寺跡は金堂辺りの部分が再発掘されていた。その部分には柵が施され一面にブルーシートで覆われていた。七重塔跡は再発掘現場をぐるりと回った向こう側にあった。15メートル四方の基壇は再現された二段の石垣が築かれ、中央に径が2メートルほどある自然石が置かれ、これが塔の心礎となっている。礎石はもう一つ径が1.5メートルの石が東南の位置に残っている。それ以外の礎石は長い年月に失われている。建築用の素材などに再利用されてしまったものだろう。


(遠江国分寺想像図)

この基壇と礎石の上に高さ66メートルの七重塔が聳え立っていた。現存する巨大な心礎や礎石はそのような巨大な塔を支えるに相応しいと思われた。往時の遠江国分寺の想像図が案内板に描かれていた。1300年後の現代に置いても、その伽藍は壮大な建築であったことが想像される。

府八幡宮と遠江国分寺跡を見学後、掛川の「ならここの湯」に寄って帰った。
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富士山とワンショット、妙善寺の多宝塔

(妙善寺の多宝塔)

「南アルプス市」とはよくも付けたものだ。2003年に山梨県の西部、中巨摩郡の6町村が合併して誕生した市である。ちなみに6町村とは八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町である。


(櫛形山)

妙善寺は南アルプス市の旧白根町にある。お寺としてはそんなに歴史のあるお寺には見えなかった。ただ、周囲に高い建物がなくて、西方には季節に山頂付近にアヤメが咲きほこる櫛形山が横に平な稜線を見せていた。

妙善寺は日蓮宗のお寺で、日蓮上人の銅像が立っていた。銅像の脇に「我日本の柱とならむ 我日本の眼目とならむ 我日本の大船とならむ」と刻まれた石碑が立っていた。「立正安国」とあるから、日蓮が書いた「立正安国論」から採った言葉なのだろう。この強烈な言葉は時の為政者からすればパラノイアのように見えただろう。数々の迫害を受けたのも無理ならぬ個性である。がっしりと大地を踏む銅像もこの石碑の言葉に呼応しているように見えた。

妙善寺の多宝塔は本堂手前の右手に建っていた。というよりも、この多宝塔が見えて妙善寺の場所を知った。多宝塔は平成10年に建立され、9年経ってネットの写真では鮮やかなベンガラ色に塗られていた柱も、早くも色が褪せて茶色になっている。屋根は銅板葺きで、相輪上部の水煙はまだ金色の輝きを失っていなかった。「納牌堂」という扁額が掛かっているから、位牌堂になっているのであろう。


(富士山とワンショット)

本堂側から写真を撮っていて大きな発見をした。下層の軒の下に何と富士山が見えているではないか。横に電線が何本か写り込んでしまうが、紛れもなく雪を頂いた富士山が存在していた。富士山とワンショットにおさまる塔は初めてであるし、そんなにめったにあるとは思えない。しかし、この富士山も建物が一棟建てば失われてしまう風景なのである。
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心頭滅却すれば、恵林寺の三重塔

(恵林寺の三門)

長禅寺の後、甲州市(旧塩山市)の乾徳山恵林寺(えりんじ)に回る。ここにも三重塔があるからである。恵林寺は武田信玄の菩提寺で信玄の墓もあるとあって、長禅寺とは打って変わって、境内は観光客でにぎわっていた。

四脚門(赤門)というのが国の重要文化財になっているが、駐車場が奥にあって、参道の途中から入ったので、三門から入った。これも県の文化財に指定されている。

三門の左右に有名な「安禅不必須山水」「心頭滅却火自涼」という看板が掛かっている。

「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭を滅却すれば火も自ら(おのずから)涼し」と読み下す。

案内板によると、
天正十年(1582)四月三日、恵林寺は織田信長に全山焼かれる。近江の佐々木承禎らを秘かにかくまい逃れさせた快川国師に信長は怒り国師はじめ百余人の僧侶らを三門へ集め火をつけた。

火を掛けられた快川国師は先の言葉を言い放って、火中で壮烈な死を遂げた。日本歴史上、最大の「やせ我慢」である。三門脇に「天正亡諸大和尚諸位禅師安骨場」と刻まれた碑が立っていた。僧侶たちの遺骨が埋葬されているという。


(恵林寺の三重塔)

恵林寺の三重塔は三門を入った左手の方、木立の中に建っていた。昭和48年建立というから、由緒ある建物の多い中では目立たない存在である。観光客も遠目に見ることはしても、そばに寄る人は少ない。立て札があり、「仏舎利宝塔(納骨堂)第二次申込み受付中 開山夢窓国師・武田信玄公菩提寺である恵林寺で三重塔の下、安らかなる永眠の場所をお求め下さい」と書かれていた。

純木造で彩色はされておらず、一辺3.42m。屋根は銅板葺である。各重に白壁が塗られ、荘厳さには欠けるが、お寺の建物を三層に積み上げたという、親しみ易さがある。初重が位牌堂、地下が納骨堂になっているようだ。
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並び立つ長禅寺の三重塔・五重塔

(三重塔と五重塔は並立)

(前日の続き)
信玄は京都や鎌倉に習って、5つの寺院を「甲府五山」と定めた。長禅寺はその筆頭寺院で、他には、東光寺・能成寺・円光院・法泉寺がある。


(長禅寺の南大門)

住職の方針なのだろう、長禅寺には案内板が一切無い。立派な建物が立ち並ぶが、歴史のある建物は無いのだろうか。正面の大きな門は何とも変った門であった。最近作られたものだろうか。屋根はしっかり葺かれているが、屋根の下は円い柱が剥き出しのまま立っているだけである。まだ未完成のようでもあり、一体どんな目的で造られた門なのだろう。案内が一切無いので何も解らない。「千社札禁止」の立て札だけがあった。(ネットでみると、この建物は「長禅寺南大門」で1993年当時、建設中であったという)


(長禅寺の変わった鐘楼)

右手から回り込むと不思議な鐘撞堂があった。細長い大きな鐘が下がった鐘楼にくっついて、撞木(しゅもく、鐘を突く棒)を収納する屋根が別に付いている。本堂は塀で囲われ、正面に造られた門が閉じていて近づけなかった。塀の外に三重塔があった。三重塔の向こうには五重塔も見えた。


(長禅寺の三重塔)

三重塔は昭和53年(1978)に完成。長野県の大法寺三重塔を模したという。和様の木造塔で、落慶から30年経って、施された彩色は早くもほとんど色あせていた。各層の屋根は銅板葺で、総高18.6m、一辺3.57m。建立の目的は大型仏塔建立の技術研究というが、どうしてどうして本格的な三重塔であった。


(長禅寺の五重塔)

塀に沿って進んだ、本堂左手の空き地に五重塔が建っていた。先の三重塔はこの五重塔を造るために試しに造ってみたのだろうか。五重塔はさらに新しく、平成元年(1989)に完成した。白木本格木造、屋根は銅板葺で、総高31.8m、一辺5.0m。空き地が十分無くて写真がなかなか撮り辛い。塀の中に入って、本堂から望むと上手く撮れるのかも知れない。

五重塔の手前には信玄の母堂大井夫人の霊廟の御堂もあった。観光客が来ないといっても、見学している間に三々五々訪れる人があった。閉鎖的な割りに南大門といい、2基の塔といい、お寺を訪れた人に見せる建物を建てている。矛盾しているようにも思える。
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富士山と甲府の長禅寺

(朝霧高原の富士山)

台風20号が太平洋沖を北東に進み、伊豆諸島から関東沖を抜けた。日曜日、雲を根こそぎ引き連れて去ったあと、さわやかな秋晴れとなった。女房は班の旅行で長野に出掛けて不在、思い切って一人で山梨へ塔を見に出かけることにした。

東名を富士川SAスマートICで下り、富士川を渡り、山越えをして富士宮に出る。朝霧高原では富士山がこれ以上ないほどくっきりと見えた。昨日の雨が山頂では雪だったようで、雪を頂いた富士山はやはり富士山らしい。雪の無い富士山は、表現は古いが、クリープを入れないコーヒーみたいである。通はともかく、一般人には物足りない。

精進湖のそばを通り、北へトンネルを抜けて甲府盆地に下る道からは、南アルプスの北部の山々や遠く八ヶ岳まで山頂辺りに雪を頂いて青空の下、くっきりと見えた。なるほど、山梨県は山国であった。


(甲府の長禅寺)

長禅寺は甲府駅近くで愛宕山を北に背負って建っていた。ここでは目的の三重塔と五重塔が並列して見られる。NHK大河ドラマ「風林火山」のブームの中、武田信玄の母堂の大井夫人(ちなみに「風林火山」では風吹ジュンがつとめる)の墓所といわれながら、観光コースにはなっておらず、訪れる人は少ない。聞くところでは長禅寺の住職は観光客を好まないという。修行の邪魔になるとか、汚されるという理由で拝観を断わる寺院がある。宗教のあり方からすれば、どこか違うと思う。物乞いでも何でも、来る人を拒まないのが宗教のあり方だと思う。観光客に心を乱されるような修行では意味が無い。

長禅寺の開山は岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)、信玄の学問の師であり、出家した際の導師を務め、「機山信玄」という法号を与えたことで知られる。元は長禅寺は南アルプス市鮎沢にあった。信玄は甲府に新たに長禅寺を造営し、岐秀元伯を住職として迎えた。鮎沢の長禅寺は「古長禅寺」と呼ばれて今も存在する。(続く)
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北山本門寺の五重塔跡

(北山本門寺の五重塔模型)

大石寺の東、2kmのところに本門寺がある。このお寺には、昔「題目杉」を見に来たことがあった。他にも本門寺というお寺が幾つかあるので、ここの本門寺は地名を取って「北山本門寺」(あるいは「重須(おもす)本門寺」)と呼ばれている。

北山本門寺は日蓮宗の七大本山の1つで、日興の法脈を継承しているという。正式呼称は「法華本門寺根源」と言い、山号は富士山。日蓮は寺塔を建設する場所については、「景勝地を選んで寺塔を建立するべきであり、その景勝地は富士山であり、そこに建立されるべき根本の寺が本門寺である」とされた。だから富士山の周りに日蓮宗のお寺は多いし、わが寺こそ本山だという寺も多い。「七大本山」「富士五山」「興門八本山」というように我こそ日蓮宗の本流だと主張して、それぞれが引かない。しかしお寺の主張には余り興味がない。

北山本門寺にはかつて五重塔があった。江戸時代に建立された大石寺五重塔と肩を並べるような大きな五重塔だったようだが、明治43年(1910)、改修工事中に火災を起こして焼失してしまった。今、境内にその十分の一の精巧な模型が造られて、ガラス張りの箱の中に安置されていた。いずれ再建の考えがあるのだろうか。

案内板によると、三代将軍家光の側室お楽の方の発願により、四代将軍家綱の外祖母むらさきの方などの寄進を受け、元文5年(1740)に落成した。高さ33メートル、三間四面、約30平方メートルの規模であった。


(北山本門寺五重塔跡)



(五重塔の礎石)

近くの「御塔林」と呼ばれる山中に五重塔跡が残っているという看板の地図の通りに車で進んだ。土の山道に分かれるところに駐車して、歩いて入る。200mも行くと、林の中に幅3メートルもあろうか、なだらかな石段が見えてきた。石段の上には平坦な土地の中に土俵より一回り大きい基壇が築かれ、埋めた大きな基礎の石が幾つも天辺を見せて埋まっていた。それぞれの石には直径10~20センチの穴があいている。基壇の周囲にかなり広く空が開いていた。空想でそこにミニチュアを十倍にした五重塔を建ててみた。赤く塗られた柱や壁が緑に映えて美しい光景になるだろうと思った。石段下の谷は林の下を埋め尽くして椎茸のホダ木が並んでいた。

北山本門寺から直線距離で約500メートル、かつては本門寺山域がこんなにも広かったということなのだろう。
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