2017年6月30日(金) 7:00pm コンサートホール、オペラシティ
ブリテン ピーター・グライムよりパッサカリアop.33b 7′
細川俊夫 弦楽四重奏とオーケストラのためのフルス(2014) (日本初演) 19′
弦楽四重奏、アルディッティSQ
Int
スクリャービン 交響曲第3番 神聖な詩 1+23+12+11′
大野和士 指揮 東京都交響楽団
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ブラスセクションによる開始の序奏の音がデカすぎる。このオーケストラにとっては日常的なパワーの表出のはずで、でもこのパワーが音量正比例で大オケ全般におよぶとこのホールでは飽和してしまう。1632席とある。開館20年。なんでこの時節、このようなシューボックスを作ってしまったのだろう。2階3階の横席ではロクにステージが見えない。コンパクトと言えば聞こえがいいが、10年ほど前かニューヨーク・フィルがここでコンサートをやったときも完全飽和状態。シカゴ響なんか絶対無理だろうね。ヴァント&北ドイツのラスト演奏、未完作品2曲ここで聴いた記憶があるが、あのときはオケメンが指揮台を中心に半円に囲むような集中型フォーメーションだったハズ。
スクリャービンの3番シンフォニーはオーケストラ編成規模の妙よりも、めくるめく音の綾を浴びたい。
今日の大野棒、華麗な流れは横に置き、ズシズシとくる。滔々と流れ滑るようなパフォームではない。作曲家特有のフォルテシモをうならせた後の急激ピアニシモ、そこに何か空気が香るようなところがない。飽くまでも地の音で進む。これはこれで。
めくるめくテイストが出てこないのはこのホールのせいもあるような気がする。飽和ブラスセクションのあとピアニシモによるウィンドハーモニーが効果的に響かないのは、過剰飽和でエコーが潰れたようになってしまうからかもしれない。これなら持ち前の技量でスパッスパッと切って進んだ方が効果的。
それから、作品消化不足もあるようだ。慣れていない曲でぎこちなさが感じられる。滑らかな音の推移が欲しいところだ。第2楽章のレントではゆったりとした歩が欲しい。余裕やふところの深さが今一つだ。
終楽章のアレグロはなんだか短い。カットでもしているのだろうか。あっという間にフィナーレ。どんなヴァージョンなのかわからないがティンパニを連打して終わる。打撃と空白が無いものですね。容赦ない太鼓のクレシェンド連打。吹き上げるような弦とブラスの音は見事にかき消された。
全体的にこれといったツボが無い演奏で肩透かし。10日ほど前に奏されたベートーヴェンの田園におけるプレイヤーたちの体の揺れ動きと演奏は一体化して全く見事なものだっただけに。あのような演奏だったらどれだけ素晴らしかったことか。
(参考)
2369- スクリャービン3番 ライブラリー Plus rev.1
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前半に演奏された弦四オケフルス。
細川さんの作品は新作、再演かなりの数聴いている。現音コンサートにそんなに頻繁に通わなくても接する機会が多くて、耳慣れたものとなっている。
フルスは2014年作日本初演。相反する事物、陰と陽が相殺されることなく補い合い宇宙を生み出していく。世界の奥に流れる音の河を陰陽の原理で生成させる。
弦四は人、オケはその内と外に広がる自然、宇宙。弦四とオケの衝突、交合の流れの変容。
まず印象的なのは弦の刻みと震え。弦四にメロディーは無くひたすら刻む。オーケストラから始まるが、するりと入り込んだ弦四が震え始めると、それがオーケストラの弦パートに逆伝播する。この広がりは見事なものだ。指揮台を底にした扇状地のような広がり。
「私はあなたに流れ込む河になる」私(細川)の存在が音となり、より大きなものに流れ込む様をイマジン。
こうなると最初の話との境目がよくわからなくなる。メルトする形状。もうちょっと具体的に書いてくれたら助かるのに。
オケ弦の刻みに対して、ブラスセクション、ウィンド、それにパーカスの響きは、切れてバッ、バッと向かってくるあたり、このような音型の波状攻撃は一時代前のいわゆる現代音楽、その時代の時代音楽だったものが聴こえてくる。耳に響くエコーは過去のスタイルを若干感じさせる。
終わり際になり弦四は刻みをやめ息の長いフレーズが出現する。束の間の流れ。割とあっけなく終わる。
アルディッティSQの結成40周年のお祝いとして作曲、彼らにデディケートされている。オーケストラのバックが要るのでステージにあげるには簡単な作品ではないだろうとは思うが。
おわり