河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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995- マーラー9番 ヘルベルト・ブロムシュテット N響2010.4.11

2010-04-11 23:35:55 | インポート

2010411()3:00pm

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マーラー 交響曲第9

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ヘルベルト・ブロムシュテット指揮

NHK交響楽団

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今日の演奏は聴衆の爆な反応が最初から予定されていた演奏といえるかもしれない。演奏後の大ブラボーはメンバーが去った後まで続いた。

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今年83才になろうとする指揮者のポーディアムに向かう足どりは、ぜい肉もなく変な毒素もない極めて普通なものである。マーラーの9番をやるということでこれまた変なお別れモードを想定していた人にとっては肩透かしだったと思う。この9番、マーラー生誕150周年の一環として行われるに過ぎない。このあと来シーズンにむけて別の指揮者たちでどんどんサイクルされるわけだし。

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ブロムシュテット独特の、4拍子系なら第3拍目を早めに切り上げて第4拍目に大きくためをつくる振り方。昔からこのような振り方だ。

マーラーの第1楽章はその4拍子系だが、リズムがユニークで、シンコペーションの山だと思うのだが、それがまた一小節単位であり大きなフレーズのきざみとなっている。

それで、ブロムシュテットの3拍目早めの切り上げの棒と、曲の2拍目からの大きなシンコペーションのリズムがうまくかみ合わない。ぎこちなく見える。

いまさらと言った感はあるのだが、たしかにシンコペーションの塊のようなチャイコフスキーをブロムシュテットの棒では聴いたことがないような気がする。

1楽章の今一つの切れ味、ブラスの三連符のずれ、気になるところが少なからずあった。むしろ練習の成果がよく出ていてわかりにくいところも決めるところは確実に決めていたともいえる。

特に明瞭に振らなくても、音楽の流れとして演奏者指揮者ともに身についてしまっているような音楽との微妙な違い。早い話、マーラーはあまり得意ではなさそうだ。今週来週のエロイカ、ブル5の好演が約束されてしまったような話かもしれない。

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それで第1楽章だが、変な粘着質の音楽表現となっておらず、つまり極度に不自然に引き延ばされる音価、やりすぎ歌い過ぎ、そのような極端な表現はとらずむしろ一所懸命スコアを見て棒振るその姿そのもののような音楽解釈で几帳面とも言えるし、慣れていないともいえる。入魂といった言葉には少し距離がある。

オーケストラは右左分けた対向配置。弦、とくに分離したヴァイオリンの響きが素晴らしかったが、それにもましてかなり膨れ上がったウィンドの充実感がなんとも言えない。この曲は瞬間断面の響きはそれほどぶ厚いものではなく、ウィンドの多彩な音色を楽しみたい。逆にホルンは響きの強烈ハーモニーと松崎さんのほぼ完ぺきなソロの両方を。

トランペットもトロンボーンもチューバもブラスは見事だが、ウィンド+ブラスの合奏強奏部分でこの第1楽章に少し濁りが聴こえた。ただ浅い響きなっていないのはN響の力というところか。

3拍子系の第2楽章。これも第1楽章と同様の問題がある。こんどは第3拍目にためがはいる。単なるアウフタクトからはいるフレーズならこれでもいいが、マーラーの場合、3拍目よりもっと前、つまり小節の頭から2拍目の途中から始まってしまうようなフレーズが多発する。この音型、あの棒だとなかなか合わすのは難しいのではないか。練習の成果はでていたのだが。

テンポは動かしにくいし、ダイナミックな部分も少しそがれてしまうかもしれない。それであればこそ、造形的な音楽美が表出されてくるわけでこれはこれでいいとも思う。ここでも前広のウィンドのサウンドが素晴らしい。

3楽章は2拍子系。ここは拍にそってバンバンと押していく音型であり、余計なことをあまり気にせず振れるし演奏できる。だいぶ良くなってきた。ここにきて安心して音楽にのめりこむことができはじめた。ノリとは遠い演奏ながらバランスを崩さず節度あるアップテンポで進む演奏はみごと。フライング拍手をした方にはご退場いただきたいところだが、隣の席で眠りこける音大生よりはましかもしれない。

棒を持たず振りぬいた第4楽章こそは、マーラーにしては最も得意とする音楽、そのようにブロムシュテットも言っているようだ。はねあげてためをつくる棒、棒は持っていないので腕、手先、指、これらが非常に見事な説得力を持って白鳥の翼のように上に跳ね上がる。右腕を震えさせながら間をとる、見事な振りだ。白眉のコーダも極端にロマンチックに耽溺することなく、音楽の転回軸を感じさせつつさらりと深みにはまらせてもらえた。

ブロムシュテットのマーラーは結果的に造形的な構築物となってしまうしかない棒なのであって、最初からそのつもりで聴けば特に問題もなく聴き果せるものなのだろう。

マーラー演奏はここ四半世紀30年、手垢にまみれた粘着質、そもそもがそれがマーラーが求めるところ作曲したところの演奏様式であったのかもしれない。でも音楽表現というもっと大きい枠組みのなかにあってはこのような演奏解釈、それももはや枯れた巨匠の音楽という陳腐な言葉を横に置いてしまうような演奏家においては、なじまないなじむなどといったそれこそ陳腐な言葉、イメージをすぐに取り払いたくなって、それで当たり前とも思う。今日の9番は作り上げた演奏のように聴こえた。

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それで、この指揮者の指揮棒様式はデフォルメ、変形気味の曲よりも、古典的な形式に沿った音楽にこそピッタリで、今月はこのあとベートーヴェンとブルックナーでそのまま力がでてくるのはほぼ間違いのないところ。特にブルックナーにおいては、あまりの安定感と説得力にきっと、肝をつぶすことになるだろう。

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昔聴いたブロムシュテットとドレスデンによるブル5の感想はこちら

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