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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

J.K. フェアバンク著 市古宙三訳 『中国』 (上)

2005年07月28日 | 東洋史
 抜き書き。

“十三世紀から十九世紀にいたる新儒教の時代に、思想の世界では朱憙が、誠実な心は外界のものを研究すること、すなわち「格物」によって得られる、「格物」の後はじめて人は己れ自身を理解することができるであろう、と教えた。しかしこの「格物」という言葉は、科学的観察を意味するのではなく、人事を研究することである” (第3章「儒教の典型」 本書82頁)

 ――簡にして要を得た指摘。

“科学の発展はまた、より完全な論理の体系を中国人が完成できなかったことによって阻まれた。論理学を用いれば、思想を思想によって、一説を他説と体系的に対決させることによって、吟味することができたはずである。ところが中国の哲学者は、かれらの原理はすでにそれが述べられたとき自明であると考えた。かれらはギリシャ人のように、文法と修辞法とを区別せず、したがって抽象と具体、もしくは一般と特殊とを区別しなかった。中国の著作家は、均整、反対のものとの均衡、自然秩序との調和、という一般的な考えに強く頼っていた。有名な連鎖論法は、二十世紀の中国学者にとっては、反駁の余地ない論法ではあるが、ギリシャ人の観点からすれば、それは前提とは関係なく生まれてくるおかしな推論でしかなかった” (第3章「儒教の典型」 本書83頁)

 ★このあとに中国式連鎖論法の一例として、『大学』の平天下→治国→斉家→修身→正心→誠意→致知→格物→知至→意誠→心正→身修→家斉→国治→天下平のくだりを引く。

 ――同上。

“このような思想と行動の欠点の背後には、科学の発展を阻止する経済的、社会的環境がみられる。大規模な経済的な組織や生産の国家による独占は、個人の企業が発明や機械の仕様によって大規模に分け前を取るおそれがあるときはいつでも、個人の企業に敵対的であった。さらに尽力の豊富なことは、労働を節約する機械装置を輸入するのを妨げた。官僚階級の支配的地位と法律による抑制を受けずに課税する官僚の権力とは、官僚の庇護のもとでなければ新しい計画を発展させることを困難にした。中国の遅れは、能力の問題よりも動機づけの点にあった。固有の才能の問題よりも社会環境にあった。要するに中国に科学が発達しなかったのは、工業経済の発達しなかったことの一つのあらわれであって、工業の発達しなかったことはさらに、儒教国家が本質的に農業的な官僚主義的性格であったことにまでさかのぼるものであった” (第3章「儒教の典型」 本書83-84頁)

 ――これはどうだろうか。中国では工業経済が発達しなかったから科学が発達しなかったのではなくて、科学が発達しなかったから工業経済が発達しなかったのではないか。

“手でする仕事は学者とは違う社会レベルの象徴であった(略)。自分の手で働くものは、学者ではなかった。したがって学者は、仕事場で職人に会わなかったし、また新しい技術を必要とする職工にも会わなかった。この筋肉労働と頭脳労働との分離は、レオナルドに始まるヨーロッパ科学の初期の先駆者の例と著しい対照をなしている。これら先駆者たちは職人の伝統から身を起こし、学者でありながら自分で工場をもっても、社会慣習として平気であった” (第3章「儒教の典型」 本書85頁)

 ――やはりこれが、中国で科学が発達しなかったことの根幹の原因になるのだろうか。

“自強のスローガンの下に、かれら(一八六〇--一九〇〇年代の中国人)は西洋の武器や機械を採用しはじめたが、その結果は、西洋のものを一つ借りればまた他も借りなければならなくなる――機械から技術へ、科学から全ての学問へ、新しい思想の受容から制度の変革へ、結局において立憲改革から共和革命へ――という、どうにもならない過程の中に自分たちが吸い込まれていくことに気づいただけであった。半分だけ近代化するということ、すなわち道具だけを近代化して価値は近代化しないということがまちがっていることは、実際にいって多くの保守的な知識人には明らかなことであった。だからかれらは、西洋のものすべてに反対するという道を選んだ。このような頭の堅い人たちと、道具だけ近代化すればいいんだという人たちとによって、政策は論議されていたから、決定的な革命的変革をしようという第三のコースには、少しもチャンスがなかった” (第8章「革命の過程――改革と革命」 本書215頁)

 ――辛亥革命でさえ、第三のコースであったとはどうも言い難い。満州族が悪い→清朝が悪い→悪いのはすべて清朝のせいだ→清朝を倒せば全てよくなる、では・・・・・・。

“自強運動の中心人物は、太平軍を鎮圧した曾国藩やその若い補佐者であった李鴻章(一八二三―一九〇一)のような学者=官吏であった。かれらは兵器工場を建てて西洋式の船や銃砲をつくった。西洋の科学書の翻訳を助成した。防衛のために西洋の方法を学びそれを用いなければいけないという考えを広めた。すでに一八六四年に李鴻章は、(一)外国人が中国を支配するのは武器の優秀なことにもとづくこと、(二)かれらを中国から追い出そうと思ってもそれはほとんど見込みがないこと、(三)中国の社会はそれゆえに、紀元前二二一年に秦の始皇帝によって中国が統一されてから以来、最大の危機に直面していること、を北京に報告し、中国を強くするためには西洋の機械を使う方法を学ばなければならない、すなわち、中国人の職員を訓練しなければならない、と結論した。このような簡単な推論は。一八五三年ペリーが来てから後の日本の武士たちには自明のことであった。しかし中国における近代化の運動は、儒教を信奉する中国の知識人の無知と偏見とによっていつも妨げられた。日本が急速に近代化しつつあった時代に、中国が西洋文明に対する感応性の欠けていたことは、歴史における中国と日本の大きな差異となってあらわれた” (第8章「革命の過程――改革と革命」 本書215-216頁)

 ――イザベラ・バードは『中国奥地紀行』(→6月11日「今週のコメントしない本」②)のなかで、中国の“文人”の外国に対する無知と偏見に呆れ果てている。彼女は、彼ら“文人”が「あれは外国の悪魔だ」と扇動した民衆に取り囲まれて、あやうく殺されかけた。

(東京大学出版会 1979年12月第7刷)

▲「大紀元」インターネット(日本)、「海南省: 謝罪しない日本人、病院治療お断り」(2005年7月26日)
http://www.epochtimes.jp/jp/2005/07/html/d66519.html
 
 ――血統論である。しかしながら、先祖の罪や恥を自分が犯したものように感じて背負い込み、なんとかそこから逃れようとするところ、日本の愛国者の人々もまた日本式“血統論”の信奉者であろう。

和久田幸助 『新・私の中国人ノート』

2005年07月28日 | 政治
 今月25日欄、同じ著者による『最新私の中国人ノート 民衆は何を考えているか』『続・私の中国人ノート』『続続・私の中国人ノート』からの続き。読む順番が無茶苦茶だが、これは図書館で借りられるものから借りているからで、しかたがない。
 新しい感想はとくにない。しかしながら本書所収「書評・『支那の民族性と社会』」で、河合貞吉の同名著作(谷沢書房 1937年12月)の存在を教えられたのは大変有益だった。

(講談社 1985年1月)