書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

村上嘉英 「近世琉球における中国語学習の様態」

2015年01月28日 | 地域研究
 『東方学』41、1971年3月、同誌91-100頁。

 有名な唐栄の住民(久米三十六姓)は、明初といわれる中国からの移住の後、次第に中国語を忘れていっていたのだが、18世紀初(1718年)に国家制度としての中国語教育体制が整う(明倫堂の設置)。ここで教えられるのは彼ら本来の母語である福建語ではなく北京官話であった由。
 因みに明倫堂の設置を提起したのは程順則であった。またこの年1718年は蔡溫が琉球国の統治の最高責任者の地位にあった時期である。蔡溫は冊封使としてこの前々年に清へ出発し、この年に帰還している。二人とも久米三十六姓の出身である。

加地伸行 「中国古代論理学史における荀子」

2015年01月28日 | 東洋史
 『東方学』41、1971年3月、同誌32-47頁。

 中国古代論理学史の大きな流れについて、ふつう、つぎのように説明されている。
 詭弁論者たちが論理学の発達を歪めたが、荀子が登場して詭弁を批判し、正しい論理学を打ちたてた。一方、詭弁論者たちの議論を整理して行き、論理学の精密化を図ったのが、墨家後期の、いわゆる墨弁の諸篇に見られる論理学〔略〕であり、これは荀子に影響を与えた。中国古代論理学史において、墨家の論理学や荀子の論理学というようなすぐれたものも生まれたが、その後ついに中国においては論理学が発達しなかった。それにつけても、誤った方向に走った詭弁論者たちのエネルギーが惜しまれる、と。
 (32頁)

 この見取り図に疑問を呈し、そもそも「正しい論理学」とは何か、というところから始めて、結果としてこれをほぼ全否定するのが本論の内容である。

日原利国 「荀悦の規範意識について」

2015年01月28日 | 東洋史
 『東方学』18、1959年6月、同誌9-20頁。

 図式化するならば、現実解釈に於ては厳しく実証的であり、優れて帰納的でありながら、その解決策ないし未来図の構成に於ては、経書からの安易な演繹、儒家的教説の不用意な援用の如きドグマティズムに陥つていると云ひ得よう。それは儒家通有の病弊であり限界であるかもしれない。ただ荀悦の場合は、基本的には家族津特に至上の価値を認めながらも、現実の場に於ては国家主義的なるものと儒教主義的なるものとの並立に執拗な努力を繰り返したのであった。 (20頁、原文旧漢字)

 荀悦の思惟に形式論理(帰納・演繹)的思考が見られるとの主張。ただし帰納は実証主義・事実主義を唱えるなど、かなり厳密だが、演繹は儒教経典中の言説と儒家の教説を安易に前提とした、杜撰なものという指摘。
 彼の認識論上の実証主義、帰納的方法(10-11頁の指摘)はどこから来たものか?