「コミュニケーション力」とは、日本語本来のやまとことばに直せば「口八丁手八丁」ではないか。
『広辞苑』には、「口八丁手八丁」は、「することもしゃべることも達者なこと」と定義してある。本来悪い意味ではない。ところが日本語には「巧言令色」という漢字熟語の同意語があって、その「鮮矣仁(すくなし仁)」のニュアンスが、逆に「口八丁―」の意味に影響していると思える。
それに関連して思うのは、こんにちの中国語の”方言”である。それらは元来漢語とは別系統の言語である。だがそれらの諸非漢語が、表意文字としての漢字を受容する過程で、漢語の持っていた漢字とそれによって形作られた熟語(つまり概念と表現)をも受け入れていった。そして漢字熟語(漢語の語彙と表現)が、原語の同意語・表現と並立し、あるいは取って代わった(このことは漢字を自分たちの言葉にある発音――その音の本来の意味は関わりなく――を当てて読んだために、それらが本来は借用語であると認識しづらくなっているが)。その結果、借用語の意味とニュアンスが、原語の対応語に影響を与えているのではないか。もしそうであれば、情況は日本語における「口八丁手八丁」「巧言令色」にまつわるそれと同様ではないかと、その相似に思いをはせているところである。
しかし日本語の場合、こんどは「コミュニケーション力」という新たな借用語(?)の同意語によって、「口八丁手八丁」は、こんどは肯定的なニュアンスを与えられるかもしれない。
『広辞苑』には、「口八丁手八丁」は、「することもしゃべることも達者なこと」と定義してある。本来悪い意味ではない。ところが日本語には「巧言令色」という漢字熟語の同意語があって、その「鮮矣仁(すくなし仁)」のニュアンスが、逆に「口八丁―」の意味に影響していると思える。
それに関連して思うのは、こんにちの中国語の”方言”である。それらは元来漢語とは別系統の言語である。だがそれらの諸非漢語が、表意文字としての漢字を受容する過程で、漢語の持っていた漢字とそれによって形作られた熟語(つまり概念と表現)をも受け入れていった。そして漢字熟語(漢語の語彙と表現)が、原語の同意語・表現と並立し、あるいは取って代わった(このことは漢字を自分たちの言葉にある発音――その音の本来の意味は関わりなく――を当てて読んだために、それらが本来は借用語であると認識しづらくなっているが)。その結果、借用語の意味とニュアンスが、原語の対応語に影響を与えているのではないか。もしそうであれば、情況は日本語における「口八丁手八丁」「巧言令色」にまつわるそれと同様ではないかと、その相似に思いをはせているところである。
しかし日本語の場合、こんどは「コミュニケーション力」という新たな借用語(?)の同意語によって、「口八丁手八丁」は、こんどは肯定的なニュアンスを与えられるかもしれない。