『東方学』18、1959年6月、同誌9-20頁。
図式化するならば、現実解釈に於ては厳しく実証的であり、優れて帰納的でありながら、その解決策ないし未来図の構成に於ては、経書からの安易な演繹、儒家的教説の不用意な援用の如きドグマティズムに陥つていると云ひ得よう。それは儒家通有の病弊であり限界であるかもしれない。ただ荀悦の場合は、基本的には家族津特に至上の価値を認めながらも、現実の場に於ては国家主義的なるものと儒教主義的なるものとの並立に執拗な努力を繰り返したのであった。 (20頁、原文旧漢字)
荀悦の思惟に形式論理(帰納・演繹)的思考が見られるとの主張。ただし帰納は実証主義・事実主義を唱えるなど、かなり厳密だが、演繹は儒教経典中の言説と儒家の教説を安易に前提とした、杜撰なものという指摘。
彼の認識論上の実証主義、帰納的方法(10-11頁の指摘)はどこから来たものか?
図式化するならば、現実解釈に於ては厳しく実証的であり、優れて帰納的でありながら、その解決策ないし未来図の構成に於ては、経書からの安易な演繹、儒家的教説の不用意な援用の如きドグマティズムに陥つていると云ひ得よう。それは儒家通有の病弊であり限界であるかもしれない。ただ荀悦の場合は、基本的には家族津特に至上の価値を認めながらも、現実の場に於ては国家主義的なるものと儒教主義的なるものとの並立に執拗な努力を繰り返したのであった。 (20頁、原文旧漢字)
荀悦の思惟に形式論理(帰納・演繹)的思考が見られるとの主張。ただし帰納は実証主義・事実主義を唱えるなど、かなり厳密だが、演繹は儒教経典中の言説と儒家の教説を安易に前提とした、杜撰なものという指摘。
彼の認識論上の実証主義、帰納的方法(10-11頁の指摘)はどこから来たものか?