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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

劉知幾 『史通』 「内篇 自叙第三十六」

2013年12月19日 | 東洋史
 テキストは「維基文庫」から。

 劉知幾は、ここで、「少年の頃『古文尚書』を教えられたが、言葉が難しくて何を言っているのかわからなかった」と正直に書いている。「『春秋左氏伝』は(朗誦する際のリズムもよくて)よく解った」とも言っている。この感想はいろいろな示唆を含んでいるようで、とても面白い。
 また劉は続けて、『史記』『漢書』『三国志』などの史書に親しむことになるのだが、同時に科挙の勉強もしなければならず、歴史の研究は思うに任せなかったと、記している。
 彼が科挙の受験勉強を「揣摩」と表現しているところが、ますます面白い。
 この表現の特異さについては川勝義雄氏も『史学論集』(朝日新聞社 1972年)で指摘されている。私は、劉は、科挙は出題者の顔色を窺ってその望み通りの予め決まった答えを書くというだけで、何ら知的に興奮するところのない作業だから「揣摩憶測」の揣摩と形容したのであろうと、解釈している。
 やはり劉知幾と章学誠は似ているな。

杜預 「春秋左氏伝序」

2013年12月19日 | 料理
 冒頭、
 
 春秋者、魯史記之名也。記事者、以事繫日、以日繫月、以月繫時、以時繫年、所以紀遠近、別同異也。故史之所記、必表年以首事。年有四時。故錯舉以爲所記之名也。 (テキストは例えば『近代デジタルライブラリー』石川鴻斎述「春秋左氏伝講義」を見よ)

 とあって、時を示すに「何年+季節+何月+干支日」と記すのが『春秋』の体例であると杜預は指摘している。
 これは、逆に言えば、以後の文言文の書き手がこの時の表記法を取るならば、それは『春秋』(およびその注疏)の文体、即ち語彙・表現、そして必然的にその世界観に倣っている、もしくは束縛せられているということを意味する。読み手はそれを心得て対せねばならないであろうということだ。
 ――といいつつ、実のところ、「春秋左氏伝序」のそのあとは私にはよくわからない。そもそも杜預が前提として措定するような(本人は帰納的に見つけたと言いたげだが)、首尾論旨一貫した“大義”は、はたして『左氏伝』に、そしてその奥にある『春秋』に有ったのか。杜預自身、『左氏伝』は「其文緩、其旨遠(その文は緩く、その旨は遠し)」と認めているではないか。

(晉)張華撰 (宋)周日用ほか注 『博物志』

2013年12月18日 | 自然科学
 テキストは「鴎外文庫書き入れ本データベース」から。

 張華は政治家あるいは人間としては、自分可愛さのあまりの濁った出処進退にはあまり感心しないが、彼の著した『博物志』については、かなり面白かった記憶があった。日本語訳が出たというのであらためて読み返してみた。
 以前読んだときにはこちらが至らなくて気がつかなかったことがいくつかある。
 自国を「晋」「中土」「中州」などではなく「中国」と称んでいることに気がついた。また、『物理論』という著作からの引用があることにも。「物理論云水土之気升為天」。あと、西晋の人なのに東晋に書かれた『晋中興書』からの引用があったり、北魏の賈思勰『斉民要術』が言及されていたり、はては唐の人である劉知幾が曰くとあったりして、笑いに事欠かないのだが、しかし、「中国」という言葉遣いについては、ほぼ同じ時期に書かれた江統「徙戎論」にも同様に「中国」とあることを考えれば(注)、『詩経』(「大雅 生民之什」)を典拠にしているというだけでなく、それ以上に何か関係があるのかもしれないと疑われる。ただしここが張華の原著そのままであればの話だが。

 
  此等皆可申諭發遣,還其本域,慰彼羇旅懷土之思,釋我華夏纖介之憂。惠此中國,以綏四方,施永世,於計為長。 (「徙戎論」末尾)

原作西村ミツル 作画天道グミ 『ヘルズキッチン』 4

2013年12月18日 | 料理
 「『ヘルズキッチン』1」 より続き。

 この巻に初登場する雲井蜜郎を見て、田村由美『BASARA』の那智かと驚いた。外見、髪型、関西弁、父親は大物。ただしこちらの方が性格がキツい。あるいは周囲や他人のことを考えないから自分がそのままストレートに出る。那智も生地はこんなものだろう。

(講談社 2011年7月)

金谷治 『管子の研究 中国古代思想史の一面』

2013年12月18日 | 東洋史
 『管子』という書物が、すくなくとも部分、もしかしたら全部、管仲本人の書いたものではなく後世の人間、大きく括って「管子学派」と分類すべき人々によって著された文章の集成であること、しかもその編集方針にも内容にも取り立てて一貫性は認められず、雑然とした編纂物となっていることはわかった。
 『○○先生紀念論文集』みたいなものと考えれば遠からずだろうか。

付記

 『管子』「立政」篇を読んで、その言葉と内容の薄っぺらなことに驚いた。多分に戯画化されているが、いわゆる経営コンサルタント(コンサル屋と貶めて呼ばれるらしいが)がよく使うとされて、しばしば揶揄される話法に、そっくりである。

  國之所以治亂者三,殺戮刑罰,不足用也。國之所以安危者四,城郭險阻,不足守也。國之所以富貧者五,輕稅租,薄賦斂,不足恃也。治國有三本,而安國有四固,而富國有五事,五事五經也。 (「諸子百家中國哲學書電子化計劃」)

 やたらに数立てて理由やら条件やら案を述べ立てる所がである。しかもこの場合、始末の悪いことにそのどれもが具体性に欠け、曖昧で、確かな中身がない。

(岩波書店 1987年7月)

田中一輝 「魏晋洛陽城研究序説」

2013年12月17日 | 東洋史
 『立命館史学』34、2013、87-114頁。

  後漢のそれを承けた魏晋時代(3-4世紀)の洛陽城については、内城(皇宮)は一つという一宮説と、南北二つあったという二宮説が対立しているわけだが、この論文の著者は様々な史料的根拠をもとに一宮説に傾いている。ただし二宮説の根拠となっている『三国志』裴松之注は否定しさることができないとして、断定はしていない。
 興味があるのは、南北二つ皇宮があった場合、「複道」で繋がれていたというのがよく聞く説明なのだが、これはどういったものなのだろう。普通これは上下二階立ての通路あるいは道路を意味する。しかし『洛陽伽藍記』(5世紀成立)などでは、魏晋時代の洛陽の宮門および城中の大路は、すべて三車線だったといい、『太平御覧』巻195に引かれる同時代人陸機(261-303)の『洛陽記』ではその三道をさらに詳しく描写して、中央は天子および貴族高官専用の御道、両側を土牆で囲まれたその外側二線が臣下や一般庶民の使用する道となっていたとある。

  陸機《洛陽記》曰:宮門及城中大道皆分作三,中央禦道,兩邊策土墻,高四尺餘,外分之。唯公卿尚書章服道從中道,凡人皆行左右,左入右出,夾道種榆槐樹。此三道四通五達也。 (維基文庫

古賀勝次郎 「西洋の法と東洋の法 『法の支配』研究序説」(上)(中)

2013年12月17日 | 世界史
 『早稲田社会科学総合研究』6-1, 2005/7, pp. 1-19。
 『早稲田社会科学総合研究』6-2, 2005/12, pp. 21-37。
 
 西洋のそれに近いという意味で儒教の法思想は自然法的であり、同じ意味で法家のそれは実定法的だというのだが、「命令は命令である」「法律は法律である」という考え方からいえば、法家についてはそうだろうと思う。だが儒家はどうだろうか。孔子孟子時代ならまだしも、宋学以降はそう言い切ってよいのかどうか、いまの私にはまだ判断がつかない。
 儒家は、法と倫理が分化しない点でその法思想は自然法的であり(荀子でさえ)、法家は、それを峻別した(管子は未だし、商鞅・韓非子以後)という点において、実定法的である。ただし問題は儒家が法について殆ど語らなかったところにあると著者は言う。また強力な絶対神が存在し、その権威のもとで自然法と実定法(即法と道徳)が総合もしくは調和せしめられた西洋とはちがい、「天」はその権威において弱かったとも。

Hans Vaihinger "The Philosophy of 'As If''" translated by C.K. Ogden

2013年12月16日 | 人文科学
 副題:"A System of the Theoretical, Practical and Religious Fictions of Mankind"

 ウィキペディア(日本語)にはHans Vaihingerの項がない。ドイツ語版はもちろん、私が解る英語、ロシア語、中文版にはある。
 彼の著作"Philosophy of 'As If'"の説明としてある中に、" he used examples from the physical sciences, such as protons, electrons, and electromagnetic waves."とあるのだが、陽子も電子も電磁波もいまでは存在が実証されている(簡単にいえば目で見える)から、彼の「かのように」の哲学は、少なくとも彼が挙げた材料においては、物理学においては通用しないことになる。抑も彼は仮説 hypothesis も虚構 fictionalism とみなすのであろうか。
 よく解らない。物質 matter は hypothesis か fiction かという問題の立て方も解らないし、fiction であるという答えも解らない。著者がこの二語を区別していることは分かったが、どんな区別をしているのだろう。私にすれば、可否存在を検証されるべき、まさに仮りに定めた説明が仮説であり、検証を必要としない架空の存在が虚構だと思うのだが、この著者においてはどうなっているのだろう。物質は存在しない、或いはまだ存在は証明されていないと言っているのなら、全く理解不能である。

(London: Kegan Paul & Company, 1925)


辻静雄 『エスコフィエ 偉大なる料理人の生涯』

2013年12月16日 | 伝記
 エスコフィエは小男で、若い頃は厨房では自分で考案したハイヒールを履いていたそうな。料理場の熱気はいまでも大変なものだそうだが、設備の悪かった昔はそれがより一層で、背が低いとストーブの熱にそれだけ早くやられてしまうからだった。
 ロンドンのカールトンホテルで部下として働いていたホーチミンとの関わりについては、とりたてて言及はない。

(復刊ドットコム版 2013年9月)