テキストは「維基文庫」から。
劉知幾は、ここで、「少年の頃『古文尚書』を教えられたが、言葉が難しくて何を言っているのかわからなかった」と正直に書いている。「『春秋左氏伝』は(朗誦する際のリズムもよくて)よく解った」とも言っている。この感想はいろいろな示唆を含んでいるようで、とても面白い。
また劉は続けて、『史記』『漢書』『三国志』などの史書に親しむことになるのだが、同時に科挙の勉強もしなければならず、歴史の研究は思うに任せなかったと、記している。
彼が科挙の受験勉強を「揣摩」と表現しているところが、ますます面白い。
この表現の特異さについては川勝義雄氏も『史学論集』(朝日新聞社 1972年)で指摘されている。私は、劉は、科挙は出題者の顔色を窺ってその望み通りの予め決まった答えを書くというだけで、何ら知的に興奮するところのない作業だから「揣摩憶測」の揣摩と形容したのであろうと、解釈している。
やはり劉知幾と章学誠は似ているな。
劉知幾は、ここで、「少年の頃『古文尚書』を教えられたが、言葉が難しくて何を言っているのかわからなかった」と正直に書いている。「『春秋左氏伝』は(朗誦する際のリズムもよくて)よく解った」とも言っている。この感想はいろいろな示唆を含んでいるようで、とても面白い。
また劉は続けて、『史記』『漢書』『三国志』などの史書に親しむことになるのだが、同時に科挙の勉強もしなければならず、歴史の研究は思うに任せなかったと、記している。
彼が科挙の受験勉強を「揣摩」と表現しているところが、ますます面白い。
この表現の特異さについては川勝義雄氏も『史学論集』(朝日新聞社 1972年)で指摘されている。私は、劉は、科挙は出題者の顔色を窺ってその望み通りの予め決まった答えを書くというだけで、何ら知的に興奮するところのない作業だから「揣摩憶測」の揣摩と形容したのであろうと、解釈している。
やはり劉知幾と章学誠は似ているな。