書籍之海 漂流記

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韓愈 「師説」 冒頭句新釈

2012年03月28日 | 東洋史
 古之学者、必有師。 師者所以伝道授業解惑也。 人非生而知之者。 孰能無惑。 惑而不従師、其為惑也、終不解矣。
 
 伝統的な読み下し文は以下の通り。

 古の学ぶ者は、必ず師有り。師は道を伝へ業を授け惑ひを解く所以なり。人は生まれながらにして之を知る者に非ず。孰か能く惑ひ無からん。惑ひて師に従はざれば、其の惑ひたるや、終に解けざらん。

 「古の学ぶ者は、必ず師有り。師は道を伝へ業を授け惑ひを解く所以なり」の箇所、「古の学びは、必ず師有り」と訓むのはどうだろう。
 つまり学者の“者”を、“~する人”ではなく、たんに主語を示す虚詞として解するわけである。もともと後の師ではそう解しているのだから(師は道を伝へ業を授け惑ひを解く所以なり)、べつに否定する理由はないだろう。それどころか、“学”と“師”が措辞・意味的に対存在になっている以上、字数としても一字でそろえてあると見るほうが普通ではなかろうか。
 さらに言えば、前の“学者”が“学ぶ人”ではなく“学ぶこと”であるとすれば、後の“師”もしくは“師者”は、“教える人”ではなく“教える人に就くこと”あるいは“師に就いて教えをうけること”ではないか。つまり動詞もしくは抽象名詞と取るわけだ。
 さてこの考え方に従えば、「古之学者必有師。師者所以伝道授業解惑也」の訓みは、以下のようになる。

 古の学びは、必ず師とする有り。師とするとは道を伝へ業を授け惑ひを解く所以なり。

 とすれば、文中の“授け”は、“さずけ”と読むのではなく“うけ(受け)る”とならねばならない。“授”はどちらの解釈も可能な字だが、実際に“授”ではなく“受”になっているテキストもある。このことは、私のこの解釈を取る立場があったことの一証拠となるだろう。
 ところで、古来の訓読が「古の学ぶ者は、必ず師有り。師は道を伝へ業を授け惑ひを解く所以なり」のみであるのは何故だろう。断定できる理由はないと思えるが。