書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

菅原正子 『占いと中世人 政治・学問・合戦』

2012年03月06日 | 日本史
 中世の日本人は、いくら身を慎み善行を積んでも天命がほほえむかどうかは限らない――というよりわからない――と考えていたので、それが当時広く見られるニヒリズムのもとになっていたと、誰かの中世史概説にあったのだが、そういう方面の話はなかった。いかに中世人が占いに頼っていたかはここにある豊富な実例で知ることができた。わからないからいっそう占いに頼るという心理的メカニズムかと思えば納得できる。
 それにしても秀吉は島津氏の占いのところで名だけ出てあと自身の例がひとつも出てこないが、まったく(史料に残っているだけでも)占いというものをしなかったのだろうか。

(講談社 2011年2月)

Георгий Владимирович Вернадский 『Монголы и Русь』

2012年03月06日 | 世界史
 ジョージ・ベルナツキー『モンゴル人とルーシ』。モンゴル帝国(ジョチ・ウルスとその後継国家)とロシア(ルーシは当時のロシアの名)の関係史。2009年10月02日「土肥恒之 『興亡の世界史』 14 「ロシア・ロマノフ朝の大地」」より続き。
 ユーラシア学派のうちに入るとはいえ、モンゴル支配を何でも賛美するわけではなく、ベルナツキーは、少なくともこの本ではそれほど極端な主張をしていない。二百数十年の間支配され、その後も16世紀、完全には17世紀半ばないし18世紀までその後継国家との密接あるいは複雑な交渉が続いたのであるから、何らかの影響をルーシが受けるのは当然であり、その視点からロシア史を叙述するという立場のようである。政治・経済・社会的な影響には、直轄ないし間接支配・略奪・破壊・搾取(貢税)といった負の面におけるものも当然含まれるが、著者は価値判断を下すことなく、すべてを中立的に記している。モンゴルの支配によるそれまで分立していたルーシの合同、結果としての中央集権国家の誕生といういわば肯定的なものも含めて。
 それに、ベルナツキーは、ハーンとツァーリの称号について、それぞれ別のものとして、それ以上何の触れるところもない。ツァーリの称号は最初ビザンティン皇帝に対して、ついでモンゴルのハーンに対して用いられたロシア側の自称と述べるのみである(412頁。この点については後述)。

 以下は、2010年11月04日「ラヒムジャーノフ 『カシモフ・ハーン国(1445-1552)歴史概論』 ③」からの続きとなる。
 注1、「1432年のモスクワ大公即位にあたり、ヴァシーリー二世は、ウルグ・ムハンマド・ハーン(ツァーリ)の手から、モスクワで君主たるべしとのヤルルィク〔引用者注・勅書〕を受けた。」の根拠となる史料がわかった。同様の記述がこの本にもあり(341頁)、その注(162)および巻末の参考引用文献リスト(485頁)で、Псковские летописи 1, Псковская первая летопись, А.Н. Насонов, ред. (Москва-Ленинград, 1941) であることが明らかになった。
 なおベルナツキーは、ラヒムジャーノフが“ウルグ・ムハンマド・ハーン(ツァーリ)”としてある箇所から“ハーン(ツァーリ)”を省いている。もとの Псковские летописи (『プスコフ年代記』)がそうなのかどうか。
 
(Москва: Ломоносовъ, 5.2011)