2012年03月13日「出隆/岩崎允胤訳 『エピクロス 教説と手紙』」から続き。ルクレチウスの原典を読む。彼の神の存在を認める無神論とはこのようなものだ。
それゆえ精神のこの恐怖と暗黒とを追いはらうものは
太陽の光線でもなく、白日の輝く矢でもなくて
自然の形象とその理法でなければならない。
それの原理を私たちはこのことからはじめなくてはならない、すなわち
無からはたとえ神意によっても何物も生れないということ。
まことに恐怖が死すべきものどもすべてを捕らえて離さぬのも
地上と天上において見られる多くの現象が、
その原因をなんとしても知ることができずに
神々の意思によってなれると信じられているからである。
それゆえ無からは何物も生じえないことを知るなら、その時は、
私たちが探究しているものをすでにより正しく、これからは
見きわめることになるだろう。すなわち物はそれぞれ何からつくられ、
どんなふうにして、万事は神々の働きなしに生じうるかを。
(岩田義一/藤沢令夫訳「事物の本性について 宇宙論」第一巻 146-158、本書294頁)
ルクレチウスがエピクロスと異なっているのは、観察不可能なものについて臆測で断定しないという態度が徹底しないところである。古代社会の有様など、自身で見られたはずのない事柄を、まるで見てきたかのように描いている。詩人であり詩であるからというジャンルや文体上からの説明は当然ありえるであろうが、唯物思想――神秘主義の否定および原子論、徹底した自然の観察と客観的証拠の重視――を論じる作品の性格以上、その不徹底さは精神と思惟のそれをも示すものと考えざるを得ない。
さらに、これは本書巻末の「解説」で訳者の一人藤沢氏も述べておられることだが、ルクレチウスの筆致にはすくなからず飛躍があって、論理が追いにくい。「それゆえ」とか「かくして」という接続詞を彼は多用するのだが、「すぐ前で言われていた事柄の続きからだけ考えれば、何が『それゆえ』であり『かくして』であるのか、皆目わからないことがよくある」(「解説」461頁)。さしずめ、上で引いた段落の最初の「それゆえ」など、まさしくその部類に入ろう。
私はこの作品を通読していて、どうも文意がつかみにくくまた読みづらいと感じたが、おそらくはこの理由によるのであろう。そしてさらに付け加えるとすれば二つ、一つは、ルクレチウスが本来何物かを指すべき代名詞をしばしばその名詞より先に使用する点、二つ目は、その代名詞自体を多用することで、すくなくとも日本語訳では文体がやや弛緩冗長に陥りがちだという点もまた、その理由として挙げることができようか。これら二点についても、上掲段落から読者は容易に窺うことができると思う。
(筑摩書房 1965年6月第1刷 1983年1月第4刷)
それゆえ精神のこの恐怖と暗黒とを追いはらうものは
太陽の光線でもなく、白日の輝く矢でもなくて
自然の形象とその理法でなければならない。
それの原理を私たちはこのことからはじめなくてはならない、すなわち
無からはたとえ神意によっても何物も生れないということ。
まことに恐怖が死すべきものどもすべてを捕らえて離さぬのも
地上と天上において見られる多くの現象が、
その原因をなんとしても知ることができずに
神々の意思によってなれると信じられているからである。
それゆえ無からは何物も生じえないことを知るなら、その時は、
私たちが探究しているものをすでにより正しく、これからは
見きわめることになるだろう。すなわち物はそれぞれ何からつくられ、
どんなふうにして、万事は神々の働きなしに生じうるかを。
(岩田義一/藤沢令夫訳「事物の本性について 宇宙論」第一巻 146-158、本書294頁)
ルクレチウスがエピクロスと異なっているのは、観察不可能なものについて臆測で断定しないという態度が徹底しないところである。古代社会の有様など、自身で見られたはずのない事柄を、まるで見てきたかのように描いている。詩人であり詩であるからというジャンルや文体上からの説明は当然ありえるであろうが、唯物思想――神秘主義の否定および原子論、徹底した自然の観察と客観的証拠の重視――を論じる作品の性格以上、その不徹底さは精神と思惟のそれをも示すものと考えざるを得ない。
さらに、これは本書巻末の「解説」で訳者の一人藤沢氏も述べておられることだが、ルクレチウスの筆致にはすくなからず飛躍があって、論理が追いにくい。「それゆえ」とか「かくして」という接続詞を彼は多用するのだが、「すぐ前で言われていた事柄の続きからだけ考えれば、何が『それゆえ』であり『かくして』であるのか、皆目わからないことがよくある」(「解説」461頁)。さしずめ、上で引いた段落の最初の「それゆえ」など、まさしくその部類に入ろう。
私はこの作品を通読していて、どうも文意がつかみにくくまた読みづらいと感じたが、おそらくはこの理由によるのであろう。そしてさらに付け加えるとすれば二つ、一つは、ルクレチウスが本来何物かを指すべき代名詞をしばしばその名詞より先に使用する点、二つ目は、その代名詞自体を多用することで、すくなくとも日本語訳では文体がやや弛緩冗長に陥りがちだという点もまた、その理由として挙げることができようか。これら二点についても、上掲段落から読者は容易に窺うことができると思う。
(筑摩書房 1965年6月第1刷 1983年1月第4刷)