書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

正岡子規 『病状六尺』 より

2012年03月29日 | 抜き書き
 〈http://www.geocities.jp/kyoketu/8204.html

〇今朝起きると一封の手紙を受取った。それは本郷の某氏より来たので余は知らぬ人である。その手紙は大略左の通りである。  
拝啓昨日貴君の「病牀六尺」を読み感ずるところあり左の数言を呈し候  第一、かかる場合には天帝または如来とともにあることを信じて安んずべし
第二、もし右信ずることあたわずとならば人力の及ばざるところをさとりてただ現状に安んぜよ現状の進行に任ぜよ痛みをして痛ましめよ大化のなすがままに任ぜよ天地万物わが前に出没隠現するに任ぜよ  
第三、もし右二者ともにあたわずとならば号泣せよ煩悶せよ困頓せよしかして死に至らんのみ小生はかつて瀕死の境にあり肉体の煩悶困頓を免れざりしも右第二の工夫によりて精神の安静を得たりこれ小生の宗教的救済なりき知らず貴君の苦痛を救済し得るや否をあえて問う病間あらば乞う一考あれ(以下略) 
 この親切なるかつ明哲平易なる手紙は甚だ余の心を獲たものであって余の考もほとんどこの手紙の中に尽きて居る。ただ余にあっては精神の煩悶というのも、生死出離の大問題ではない、病気が身体を衰弱せしめたためであるか、脊髄系を侵されて居るためであるか、とにかく生理的に精神の煩悶を来すのであって、苦しい時には、何ともかとも致しようのないわけである。しかし生理的に煩悶するとても、その煩悶を免れる手段はもとより「現状の進行に任せる」よりほかはないのである、号叫し煩悶して死に至るよりほかに仕方のないのである。たとえ他人の苦が八分で自分の苦が十分であるとしても、他人も自分も一様に諦めるというよりほかに諦め方はない。この十分の苦が更に進んで十二分の苦痛を受くるようになったとしてもやはり諦めるよりほかはないのである。けれどもそれが肉体の苦である上は、程度の軽い時はたとえ諦めることが出来ないでも、慰める手段がないこともない。程度の進んだ苦に至っては、ただに慰めることの出来ないのみならず、諦めて居てもなお諦めがつかぬような気がする。けだしそれはやはり諦めのつかぬのであろう。笑え。笑え。健康なる人は笑え。病気を知らぬ人は笑え。幸福なる人は笑え。達者な両脚を持ちながら車に乗るような人は笑え。自分の後ろから巡査のついて来るのを知らず路に落ちている財布をクスネンとするような人は笑え。年が年中昼も夜も寝床に横たわって、三尺の盆栽さえ常に目より上に見上て楽んで居るような自分ですら、麻痺剤のお陰で多少の苦痛を減じて居る時は、煩悶して居った時の自分を笑うてやりたくなる。実に病人は愚なものである。これは余自身が愚なばかりでなく一般人間の通有性である。笑う時の余も、笑わるる時の余も同一の人間であるということを知ったならば、余が煩悶を笑うところの人も、一朝地をかうれば皆余に笑わるるの人たるを免れないだろう。咄々大笑。(六月二十一日記) (六月二十三日) 


 まさに大丈夫(だいじょうふ)。我は爪の垢を煎じて服むべし。服めども自分のような惰弱の徒に効用あるかどうかは判らぬが。