『兆民先生』(明治35/1902年5月 博文社)をあらためて読む。やはり、有名な坂本龍馬の頭髪は梅毒のためにぬけあがっていたという兆民の証言は、別段何の医学的な根拠があってのことではない。
それより、兆民は生涯龍馬を尊敬していたとはっきり書いてある。そのほうが私にとっては重要である。
坂本龍馬を崇拝したる当時の一少年は、他日実に第二の坂本君たらんとしたりき。 (「第二章 少壮時代」本書29頁。原文旧漢字、以下同じ)
そういえばこの二人には気質的に共通する部分があるように思える。
予〔秋水〕曽て曰く、仏国革命は千古の偉業也、然れども予は其惨に堪へざる也と、先生〔兆民〕曰く、然り予は革命党也、然れども当時予をして路易〔ルイ〕十六世王の絞頸台家に登るを見せしめば、予は必ず走って剣手を撞倒し、王を抱擁して遁れしならんと。 (「第六章 人物」本書64頁)
薩長の幕府武力討伐路線(すなわち徳川慶喜の殺害)を避けて大政奉還方式を推進した坂本龍馬と、行動の平仄がいかにも似ている。それとも、兆民は、それまでも龍馬に倣おうとしたのだろうか。
そして、師のそんなところを、弟子は、あきらかに誇らしく思っている。
然り先生は、太白〔李白〕に非ずして少陵〔杜甫〕なりき、可馬徽〔ママ。司馬徽?それとも司馬懿?〕に非ずして諸葛亮なりき、本多佐渡〔正信〕に非ずして真田幸村なりき。 (同上)
(明治文献 1982年4月)
それより、兆民は生涯龍馬を尊敬していたとはっきり書いてある。そのほうが私にとっては重要である。
坂本龍馬を崇拝したる当時の一少年は、他日実に第二の坂本君たらんとしたりき。 (「第二章 少壮時代」本書29頁。原文旧漢字、以下同じ)
そういえばこの二人には気質的に共通する部分があるように思える。
予〔秋水〕曽て曰く、仏国革命は千古の偉業也、然れども予は其惨に堪へざる也と、先生〔兆民〕曰く、然り予は革命党也、然れども当時予をして路易〔ルイ〕十六世王の絞頸台家に登るを見せしめば、予は必ず走って剣手を撞倒し、王を抱擁して遁れしならんと。 (「第六章 人物」本書64頁)
薩長の幕府武力討伐路線(すなわち徳川慶喜の殺害)を避けて大政奉還方式を推進した坂本龍馬と、行動の平仄がいかにも似ている。それとも、兆民は、それまでも龍馬に倣おうとしたのだろうか。
そして、師のそんなところを、弟子は、あきらかに誇らしく思っている。
然り先生は、太白〔李白〕に非ずして少陵〔杜甫〕なりき、可馬徽〔ママ。司馬徽?それとも司馬懿?〕に非ずして諸葛亮なりき、本多佐渡〔正信〕に非ずして真田幸村なりき。 (同上)
(明治文献 1982年4月)