物事をより綿密に観察するだけでは、アリストテレス的理論から逃れることはとうてい不可能であった。ことに、出だしを間違って、込み入ったアリストテレス流の諸観念に足を取られてしまっていてはなおさらのことである。 (「第一章 いきおいの理論 その歴史的重要性」上巻24頁)
後半は先入主もしくは初学のおそるべきを説いたものであるが、ここでさらに重要なのは前半である。アリストテレス説が完全な真空の存在を否定したのは、他の因子が一定であれば物体の速さはその抵抗に反比例して変わるという前提で、空気抵抗がゼロになれば物体の速さは無限大になる、すなわち完全な真空中では物体はある場所からある場所へ即時に移動することになる、それは非合理であるというものだった(同上)。
当時は完全な真空をつくることは言うまでもなく、なおかつ上の実験をその中で行いなおかつそれを観察する環境を作り出すことはますます困難であった。しかしこの結論の誤謬は、「他の因子が一定であれば物体の速さはその抵抗に反比例して変わるという前提」が誤っていたからである。そしてこの前提は、人間の日常レベルで観察をいくら注意深く細部にわたって行おうとも解決するものではないと、著者は言う。
古い思考体系の枠内でどれほど綿密に観察しても、この問題は解決できず、どうしても思考の転換が必要とされたのである。 (同、25頁)
著者はガリレオの偉いところは、これを行った、つまり前提(=仮説)を転換したところにあるという。実験による検証可能な仮説を設けることにしたことである。
新しい思考への転換は(12世紀以降胎動はあったが)一般的にはなかなか起きなかった。くりかえすが、日常レベルでの観察とそこから生まれる仮説に比して現実に可能な実験とそれによる検証には水準の懸隔があったからである。
だから、古い思考的枠組みは、中世の後半期というかなり長い間生きながらえることができた。最終的な検証が不可能であったためである。
中世も後期になると、実験を行なって思考の領域を押し広げようとする人々も現れたが、その彼らも、多くは、いきおいの理論を唱えた人々と同じく、アリストテレスの体系の周辺で何かやっていたというだけのことであった。紀元一五〇〇年になっても、このアリストテレスの体系は、理性的な思想家の目に、十五世紀昔と同じ正当性をもっているように映ったに違いない。 (「第五章 実験的方法の確立 十七世紀における展開」上巻130頁)
と、著者は書く。「違いない」と文飾上推測めかして書いてあるが、このことは幾多の実例のある、れっきとした歴史的事実である。その証拠に著者はこう続ける。
中世後期には、自然を細心に観察し、その観察を大いに正確なものにしていった人々も出てきたが、そういう人たちも、純粋に記述的な事項を百科事典的に積み上げるのみであった。何か説明を要する事がらにぶつかると、これらの人々は、観察そのものから自分の理論を引き出すということはしないで、古代哲学が与えてくれた説明の全体系に頼るのであった。/十七世紀初頭にフランシス・ベイコン卿は、観察と理論がこのように遊離している状態を嘆いている。 (同。130-131頁)
だからたとえば、古代以来中世の四元素説では、四元素の火・空気・水・土はそれぞれ異なる「徳の高さ」と「高貴さ」を持ち、その差によって格付けされていた(「第二章コペルニクスと中世の伝統」上巻42頁)。土がもっともいやしい物質とされた。だから重く、下に沈むのである(その次にいやしい水も同じ)。元素はおろか、重さ・軽さ、上(昇)・下(降)といった自然の事象や現象に価値判断がくっついている。物理法則と倫理原則が未分化の状態である。コペルニクスがプトレマイオスの天文学理論に反旗を翻したのは、プトレマイオスの天文学理論が客観的データに背馳するからではなく、彼の信念(先入主・初学)であるところの「不動性は運動よりも高貴であるというプラトン的またピタゴラス的思想と結びついた考えを持っていて」、それがゆえに太陽が動くはずはない、中心にあるべきだという結論(地動説)へと至ったのであった(同、56頁)。彼の『天球の回転について』は1540年刊行である。
自然科学の領域でさえいわゆるパラダイムシフトにこれほどまでに(数十年、あるいは数百年)の時間がかかるとすれば、さらに実験と検証の困難な社会科学やそもそもそれが不可能というか時として不要であるようにさえ見える人文科学においては、いったん頭脳に入ってしまった思考(先入主・初学)からのパラダイムシフトというのは実現が極めて困難ではないかと思える。あるいは、思想そのものの正否や信頼性には関係なく、まさに“空気”によって一夜にして転換という極端な変わり方をするか。
(講談社 1978年11月第1刷 1990年9月第9刷/1996年4月第15刷)
後半は先入主もしくは初学のおそるべきを説いたものであるが、ここでさらに重要なのは前半である。アリストテレス説が完全な真空の存在を否定したのは、他の因子が一定であれば物体の速さはその抵抗に反比例して変わるという前提で、空気抵抗がゼロになれば物体の速さは無限大になる、すなわち完全な真空中では物体はある場所からある場所へ即時に移動することになる、それは非合理であるというものだった(同上)。
当時は完全な真空をつくることは言うまでもなく、なおかつ上の実験をその中で行いなおかつそれを観察する環境を作り出すことはますます困難であった。しかしこの結論の誤謬は、「他の因子が一定であれば物体の速さはその抵抗に反比例して変わるという前提」が誤っていたからである。そしてこの前提は、人間の日常レベルで観察をいくら注意深く細部にわたって行おうとも解決するものではないと、著者は言う。
古い思考体系の枠内でどれほど綿密に観察しても、この問題は解決できず、どうしても思考の転換が必要とされたのである。 (同、25頁)
著者はガリレオの偉いところは、これを行った、つまり前提(=仮説)を転換したところにあるという。実験による検証可能な仮説を設けることにしたことである。
新しい思考への転換は(12世紀以降胎動はあったが)一般的にはなかなか起きなかった。くりかえすが、日常レベルでの観察とそこから生まれる仮説に比して現実に可能な実験とそれによる検証には水準の懸隔があったからである。
だから、古い思考的枠組みは、中世の後半期というかなり長い間生きながらえることができた。最終的な検証が不可能であったためである。
中世も後期になると、実験を行なって思考の領域を押し広げようとする人々も現れたが、その彼らも、多くは、いきおいの理論を唱えた人々と同じく、アリストテレスの体系の周辺で何かやっていたというだけのことであった。紀元一五〇〇年になっても、このアリストテレスの体系は、理性的な思想家の目に、十五世紀昔と同じ正当性をもっているように映ったに違いない。 (「第五章 実験的方法の確立 十七世紀における展開」上巻130頁)
と、著者は書く。「違いない」と文飾上推測めかして書いてあるが、このことは幾多の実例のある、れっきとした歴史的事実である。その証拠に著者はこう続ける。
中世後期には、自然を細心に観察し、その観察を大いに正確なものにしていった人々も出てきたが、そういう人たちも、純粋に記述的な事項を百科事典的に積み上げるのみであった。何か説明を要する事がらにぶつかると、これらの人々は、観察そのものから自分の理論を引き出すということはしないで、古代哲学が与えてくれた説明の全体系に頼るのであった。/十七世紀初頭にフランシス・ベイコン卿は、観察と理論がこのように遊離している状態を嘆いている。 (同。130-131頁)
だからたとえば、古代以来中世の四元素説では、四元素の火・空気・水・土はそれぞれ異なる「徳の高さ」と「高貴さ」を持ち、その差によって格付けされていた(「第二章コペルニクスと中世の伝統」上巻42頁)。土がもっともいやしい物質とされた。だから重く、下に沈むのである(その次にいやしい水も同じ)。元素はおろか、重さ・軽さ、上(昇)・下(降)といった自然の事象や現象に価値判断がくっついている。物理法則と倫理原則が未分化の状態である。コペルニクスがプトレマイオスの天文学理論に反旗を翻したのは、プトレマイオスの天文学理論が客観的データに背馳するからではなく、彼の信念(先入主・初学)であるところの「不動性は運動よりも高貴であるというプラトン的またピタゴラス的思想と結びついた考えを持っていて」、それがゆえに太陽が動くはずはない、中心にあるべきだという結論(地動説)へと至ったのであった(同、56頁)。彼の『天球の回転について』は1540年刊行である。
自然科学の領域でさえいわゆるパラダイムシフトにこれほどまでに(数十年、あるいは数百年)の時間がかかるとすれば、さらに実験と検証の困難な社会科学やそもそもそれが不可能というか時として不要であるようにさえ見える人文科学においては、いったん頭脳に入ってしまった思考(先入主・初学)からのパラダイムシフトというのは実現が極めて困難ではないかと思える。あるいは、思想そのものの正否や信頼性には関係なく、まさに“空気”によって一夜にして転換という極端な変わり方をするか。
(講談社 1978年11月第1刷 1990年9月第9刷/1996年4月第15刷)