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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

YouTube 「涙そうそう」

2011年03月28日 | 音楽
 〈http://www.youtube.com/watch?v=zr1L_1GZr4A

 元ちとせさん(ヴォーカル・一番)、スガシカオさん(ギター、ヴォーカル・二番)、矢野顕子さん(ピアノ、コーラス)。
 私のようなヤマトゥンチュにはやや抑えた色調のこのヴァージョンも素晴らしい(元さんは奄美の人でヤマトゥンチュではないが)。
 ふと、鬼束ちひろさんや一青窈さんがこの歌を唱ったらどんなふうになるだろうと思った。

飯田泰三/山領健二編 『長谷川如是閑評論集』

2011年03月28日 | 人文科学
 せんだって三宅雪嶺について触れたとき、『同時代史』や『英雄論』また『真善美日本人』『偽悪醜日本人』などを知る身には「国粋主義」という決まり文句のレッテルがどうにも座りが悪く、いわば逃げで“いわゆる”を付けたのだが、この長谷川如是閑(1875―1969)の「三宅雪嶺の人と哲学」に、この上ない当時の国粋主義についての定義があった。

 明治二十年代のはじめに、そのころの日本の英仏学者を中心とした近代的国家主義の、世間から「国粋派」といわれた一団があった。それは日本の伝統の上に立って世界的の文明をこの国に建設しようというもので、今らば「伝統派」といわるべきものを、その頃は「トラディション」を「国粋」と訳していたので、そう呼ばれたのだった〔略〕。この派はまた「日本派」とも呼ばれた。それは明治二十一年に『日本人』という雑誌を出して、翌二十二年に『日本』という新聞を出したからだった。 (1950年。本書297頁)

 如是閑は、雪嶺を、「近代的経験主義に徹し」た人と呼んでいる。如是閑自身、『日本』で働いていた時期があり、三宅雪嶺も一時期『日本』の社員であっただけでなくその後も『日本』の同人とは密接な関係があったから、如是閑の雪嶺および『日本』評は信頼が置けるであろう。
 いうまでもないが、『日本』の社長は陸羯南であった(主筆を兼ねる)。陸羯南も国粋主義者として分類される。しかし陸は日本の伝統を重視する近代的国権主義者(つまり国家主義者・ナショナリスト)であって、こんにち主に第二次世界大戦前および中の“国粋主義者”から連想されるような神懸かり的な復古・尚古主義はまったくない。(ちなみに本書巻末年表によれば、如是閑の『日本』在籍は1903/明治36)年から1906/明治39年であるから、おなじく『日本』にいた正岡子規〈1902年死去〉とは在社時期は重なっていない。子規を国粋主義者と云うか?)
 要するに、この時代の国粋主義とは、今日でいうところの保守主義(コンサーヴァティズム)ではないか。
 
(岩波書店 1989年6月)

「池田信夫さんからの脅迫について」 について一読者としての感想

2011年03月28日 | 抜き書き
▲「keiseisaiminの日記」2011-03-19、「池田信夫さんからの脅迫について」 (部分)
 〈http://d.hatena.ne.jp/keiseisaimin/20110319

 池田信夫さんから脅迫を受けたので被害届を出そうかと思います。


 私は経済学の素人だから御両所の言い分のどちらに分があるのかは判らない。ただ知りたいのは、被害届を出したのかどうかということだけである。「しようかと思います」と自ら意図を明らかにした以上、実際行動に移したのか否か、結果を報告するのが筋だろうから。それとも「か」だからまだ決めていないとうことだったのか。決意表明ではなく「どうしましょう」という読者への相談だったか。それなら書かないほうがよかったのでは。

「東電『決死』の作業員1日2食の劣悪環境 一時は水も1・5リットルのみ」 を読んで

2011年03月28日 | 思考の断片
▲「msn 産経ニュース」2011.3.28 14:39。
 〈http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110328/dst11032814430035-n1.htm

 まるで旅順閉塞隊か白襷隊である。
 いや違うな。どちらも志願制だったのだから。どちらにせよ、こんな劣悪過酷な条件下での作業を強いた者は、当然その責任を取らねばならないだろう。

幸徳秋水 『基督抹殺論』

2011年03月28日 | 人文科学
 2011年03月20日「岡崎てる 『従兄秋水の思出』 から」より続き。
 簡単な内容紹介はこちら
 そこにもあるとおり、解説は林茂隅谷三喜男の両氏であるが、そのお二人にしても、秋水がこの書を著した(力作である)真の理由は断定しきれないらしい。当時のキリスト教社会主義の色彩が濃かった社会主義と決別し無政府主義者としての自らの立場表明という解釈と、基督に仮託しての天皇制否定の書であるという解釈と、ふたとおりあるらしい。
 なお、この岩波文庫版には1911年の初刊においては収録されえなかった三宅雪嶺の「序」がおさめられている。しかしなぜ秋水と雪嶺に厚い親交があったのか、とりわけ「序」における雪嶺のこれほどまでの秋水に対する高評価(注)は何故かという疑問には、林・隅谷ご両人ともやはりお答えになってはおられない。不思議ではないのかな。

 。雪嶺は、秋水を「大逆無道」と評する一方で、それを「敢えてする」「に至る」は、「良心の病みて然らんには、其の病めるの余りに甚しからずや」と、世間一般が彼を単純な西洋かぶれの反体制主義者と見なすことに異議を唱えている。ちなみに雪嶺はこのなかで、秋水のことを、「若し文政天保に生れば、恐く勤王家として骨が原の露と消えたるべ」しと評している。徳富蘆花と同じ視点である。

(岩波書店 1954年9月)

「チベット自治区主席、農奴解放記念日でテレビ談話」 から

2011年03月28日 | 抜き書き
▲「CRI Online(日本語)」2011-03-27 21:57:14、翻訳:Yan、吉田。(部分)
 〈http://jp1.chinabroadcast.cn/881/2011/03/27/147s172617.htm

 パドマチンレ主席はまた、ダライラマ一派が民族、宗教、人権の仮面をかぶり、チベット独立を主張し、祖国を分裂しようとした反動的な立場を批判しました。

 この前段(注)については争うつもりはない。数値の正確さについてはともかく、一般庶民の経済状態については革命前より良くなっているのは確かだろうからだ。それに、身分としての農奴が存在しなくなったことは素直に評価すべきだろう。(同じ理由で、私はソビエト革命についても、社会制度としての身分制を打破廃止したことに関しては評価している。)

 。“パドマチンレ主席は談話の中で、「これまでの5年、チベットは中国の特色ある、チベットの特色ある発展の道を歩み、経済成長戦略を大々的に実施し、長蛇の発展を成し遂げた。去年、チベット自治区の国内総生産は507.5億元に達し、年平均12.4%の伸びとなっている。また、去年、チベットの農牧民の一人当たり純収入も2005年の二倍近くに増え、4318.7元に達した」と述べました。さらに、「チベットの社会保障システムは徐々に完備されてきており、全国においても率先して無料の義務教育と最低生活保障制度が整備された。予期寿命も67歳に延びた」と紹介しました。

 ただ、いつまでも経ってもダライラマへの見方を変えないところ、漢人風に泥むと自分の頭でものを考えられなくなることがよく分かる実例である。疑問を持たず、持っても突き詰めず、結局権威者から与えられた公式見解を繰り返すことしかできなくなる。むかしのチベット人はおしなべて、個人の境涯・資質や受けた教育の程度による差はあれ、チベット仏教の精密な思考に大なり小なり平素から親しんでいたせいで、中国人(漢人)は頭が悪い、因果も知らない、と笑っていたと聞くのだが。

С.Е.Малов 『Памятники древнетюркской 〔...〕』

2011年03月28日 | 東洋史
『Памятники древнетюркской письменности: тексты и исследования』。

 いまとりあえずすぐに閲覧可能なセルゲイ・マローフの著書の一つ。前著と同じく彼の本業たる古代テュルク語の研究書。トルキスタン地域で出土発見された古代テュルク文字の碑文やウイグル文字古文書類の文字を写し、trasncription し、しかるのちに逐条的に訳(ロシア語)を付ける体裁も同じ。ただ冒頭テュルク諸語について分類を行っているが、現今通常の、たとえば『ウィキペディア』「テュルク諸語」におけるそれとは異なっている。
 一例を挙げると、マローフは、時系列でテュルク諸語を「古期テュルク諸語」「古代テュルク諸語」「新テュルク諸語」と分ける一方、『ウィキペディア』におけるような語群に分けない。
 そしてそれと関連して、マローフの認識においては、方言同士の関係(遠近の)も、現在の一般的見解とは若干異なっているようである。たとえば彼は、通常(『ウィキペディア』に限らずという意味で)チャガタイ語群に属すると見なされるウイグル語(現代ウイグル語、マローフの分類では新テュルク諸語中のウイグル語)とチャガタイ語を、別々の方言として併置している。
 もっとも「古期テュルク諸語」「古代テュルク諸語」「新テュルク諸語」の三項目のなかでは、マローフは、そこに属すべき主要な方言を列挙するだけで、方言相互間の関係については一切説明しない(だから、現代ウイグル語と最も近いテュルク諸語だとされる(現代)ウズベク語も、チャガタイ語()と同じく「新テュルク諸語」のなかにあげられているけれども、ウイグル語との関連については当然ながらまったく触れられない)。
 
 東トルキスタン(新疆、とくにタリム盆地地域)のオアシス都市イスラム教徒住民=サルト)に「ウイグル人」という一個の民族としての呼称を発案した人物としてのマローフの背景について、なにがしかの手がかりはないかというのが、前著『Памятники древнетюркской письменности Монголии и Киргизии』につづき、この著を繙く理由である。
 この書では、直接の手がかりではないにせよ、この分類に、興味ある点を見いだした。
 上述「古期テュルク諸語」「古代テュルク諸語」「新テュルク諸語」の三分類それぞれにおいて、その時代ごとのウイグル語と呼ばれる言語があげられているのだが、その表記は次のようである。

 ①「古期テュルク諸語」・・・・・・「ウイグル語(黄頭ウイグルのそれ)」
 ②「古代テュルク諸語」・・・・・・「ウイグル語(ウイグル文字で古文献などに書かれているそれ)
 ③「新テュルク諸語」・・・・・・・・「ウイグル語(中国側もしくは東トルキスタンのムスリムたるウイグル人のそれ」

 横の方言間の関係同様、縦の、言語間の関係についても、マローフは説明しない。ゆえに、これら各時代の「ウイグル語」の関連についても、何の言及もなく、それらが言語として系統を一にするのかどうかについても、何も書くところがない。読者は判断できない。材料不足で判断を下せないという学者的良心という見方もできるが、それにしても、ここまで来ると読者に対して不親切と言わざるを得ない(注)。

 。ところが、108頁前後では、現代ウイグル人=古代ウイグル人の末裔といきなり決めつけている。

 それにしても、“中国側もしくは東トルキスタンのムスリム・ウイグル人”の名付け親が自分であることを一言も言わないのは、不親切を通り越して不自然の感さえ抱く。

(Москва, изд. Академия наук СССР, Институт языкознания, 1951, Nauka Reprint, 1979, Tokyo)

С.Е.Малов 『Памятники древнетюркской 〔...〕』

2011年03月25日 | 東洋史
『Памятники древнетюркской письменности Монголии и Киргизии』。

 セルゲイ・マローフの本業たる古代テュルク語の研究書。キルギス・モンゴル地域に見られる古代テュルク語碑文(前者7-8世紀、後者5-8および13-14世紀)の文字を写し、trasncription し、しかるのちに逐条的に訳(ロシア語)を付ける。必要箇所に注釈、巻尾に対照語彙辞書。手堅い学究の仕事である。

(Москва; Ленинград, изд. Академия наук СССР, Институт языкознания, 1959)
 

「Islamist Group Is Rising Force in a New Egypt」 を読んで

2011年03月25日 | 思考の断片
▲「The New York Times」Published: March 24, 2011; By MICHAEL SLACKMAN.
 〈http://www.nytimes.com/2011/03/25/world/middleeast/25egypt.html?_r=1&hp

 2011年03月10日「『カイロでコプト教徒とイスラム教徒が衝突、13人死亡 エジプト』 から」より続き。

  It is also clear that the young, educated secular activists who initially propelled the nonideological revolution are no longer the driving political force ― at least not at the moment.
  As the best organized and most extensive opposition movement in Egypt, the Muslim Brotherhood was expected to have an edge in the contest for influence.

 「アッラー・アクバル(アッラーは偉大なり)」は、日常、英語でいえば "Great!" 乃至 "Very well!"くらいの、たとえば音楽家のよい演奏を聴いたときにも発せられる言葉であるとせんだって聞いたので(CD『小泉文夫の遺産』68「小泉文夫の民族音楽 第12章 アラブ諸国の音楽」)、私の素人ゆえの妄想かと思っていたのだが、あながちそうでもないようでもある。