「文化大革命はまったく間違っていました、でも毛沢東は限られた影響力のなかで少しでも事態のさらなる悪化を防ごうとしました。悪いのは林彪であり四人組です。それに経済や国防、外交の上ではすばらしい発展を見ました」(要旨・下巻「第二十八章 対“文化大革命”十年的基本分析」、とくに971頁あたり)。だったらまったく間違っていたとは言えないだろう。論理的に無茶苦茶である。
でもその一方で、大躍進はもちろん文革を発動したのは毛沢東であり、四人組は(林彪は扱いがちょっと微妙だが)、後はともあれ最初は毛沢東の意を対して働いたことになっている。周恩来も始終そうであったことになっている。読後感は、毛沢東という神が、右手に周恩来、左手に四人組を操って互いに闘わせたような印象だ。それなら最終的な責任者として起こったことすべての責めを負うべきだが、毛沢東へその点についての批判はない。究極的な価値判断を回避している。腰が退けている(だからですます調で訳した)。皮肉ではなく神に等しい存在だから棚上げということなのか。反右派闘争の辺などとくにその感を深くする(上巻、「第十一章 全党整風和反右派闘争」)。発動の指示を下したのは毛沢東とはっきり書いておきながら、どうしてその結果について一言も責任を問わないのか。
この書は公式見解に沿った史実の記述と、党の公的なそれらについての解釈の忠実な敷衍である。体制側の編んだ歴史だから仕方がないが、筆者・編者は根源的な疑問を持つことを自らに禁じている。全編党の言うとおりに書いたと、「後記」で正直に書いてある。それにしても、「個人崇拝と個人による専断は中国の遅れた部分から生まれてきたもので、良くないことです。だから民主集中制と集団指導体制を堅持しましょう」(要旨・下巻第二十八章、979頁)とは何事か。
(中共党史出版社 北京 2011年1月)