西南の役前夜、中原尚雄ほかのいわゆる「東京獅子」の捕縛と同時に、西本願寺から布教目的で薩摩に派遣されてきていた大洲鉄然ら8人の真宗僧侶が、中央政府の間諜であるという嫌疑で就縛したという記述がある(「第十章 警察同人の就縛と拷問」本書270-271頁)。その嫌疑の詳細について、蘇峰は「その間に若干の曲折あり」としか書いていない。
その間に若干の曲折あり、私学校派は、これら説教僧をもって、政府の探偵と見做し、刺客事件の連類として一網これを羅致したのだ。 (同上)
この件に関して、三宅雪嶺の『同時代史』「明治十年」項に、典拠は不明ながら記述がある。
雪嶺は、彼ら西本願寺僧侶(半数の4名が長州出身者)は、木戸孝允が、布教の名目で薩摩(鹿児島県)に入らしめていたものだという。その目的は、県内の事情をひそかに長州閥へ報告させるだけでなく、私学校一党を挑発して暴発させることであったとする。彼らは、木戸と長州閥のこの意を体して、大久保利通や川路利良が西郷を暗殺する目的で多人数を送り込んでくるという旨を薩摩人へさかんに吹き込んだのだというのである。さらに雪嶺によれば、彼らは、中原らの鹿児島行きを伝える情報(電報)にある「シサツ」という語が「視察」であることを解っていながら、これは「刺殺」の意であると説くなど、手段を選ばぬ扇動を行ったという(同書第1巻、岩波書店、1967年第2刷、525頁)。
雪嶺の言が真実であれば、彼ら説教僧の嫌疑は冤罪ではなかったことになる。
ただ、彼らの言がデマ・捏造だったとは簡単に言えないのは、蘇峰のこの書の別の箇所に、川路の部下であった佐和正少警視が中原ほかの帰国警官24名(彼らは皆薩摩出身であった)に与えた訓示が掲載されていて、そこには、私学校派の人間を殺せと書いてあることだ(「第九章 川路大警視の探偵政策」、本書170-171頁)。しかも蘇峰は、これは西郷その人に対するものではないというのだが、読んでみると、そうとばかりは取れないふしもある。しかも、この川路の私設秘書であった大山綱昌は、この佐和の訓示は川路の検閲・修正を経たと証言しているという(170頁)。
(講談社学術文庫版 1980年4月)
その間に若干の曲折あり、私学校派は、これら説教僧をもって、政府の探偵と見做し、刺客事件の連類として一網これを羅致したのだ。 (同上)
この件に関して、三宅雪嶺の『同時代史』「明治十年」項に、典拠は不明ながら記述がある。
雪嶺は、彼ら西本願寺僧侶(半数の4名が長州出身者)は、木戸孝允が、布教の名目で薩摩(鹿児島県)に入らしめていたものだという。その目的は、県内の事情をひそかに長州閥へ報告させるだけでなく、私学校一党を挑発して暴発させることであったとする。彼らは、木戸と長州閥のこの意を体して、大久保利通や川路利良が西郷を暗殺する目的で多人数を送り込んでくるという旨を薩摩人へさかんに吹き込んだのだというのである。さらに雪嶺によれば、彼らは、中原らの鹿児島行きを伝える情報(電報)にある「シサツ」という語が「視察」であることを解っていながら、これは「刺殺」の意であると説くなど、手段を選ばぬ扇動を行ったという(同書第1巻、岩波書店、1967年第2刷、525頁)。
雪嶺の言が真実であれば、彼ら説教僧の嫌疑は冤罪ではなかったことになる。
ただ、彼らの言がデマ・捏造だったとは簡単に言えないのは、蘇峰のこの書の別の箇所に、川路の部下であった佐和正少警視が中原ほかの帰国警官24名(彼らは皆薩摩出身であった)に与えた訓示が掲載されていて、そこには、私学校派の人間を殺せと書いてあることだ(「第九章 川路大警視の探偵政策」、本書170-171頁)。しかも蘇峰は、これは西郷その人に対するものではないというのだが、読んでみると、そうとばかりは取れないふしもある。しかも、この川路の私設秘書であった大山綱昌は、この佐和の訓示は川路の検閲・修正を経たと証言しているという(170頁)。
(講談社学術文庫版 1980年4月)