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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

正統思想のない歴史的ベトナム

2011年08月23日 | 地域研究
 2011年08月22日「China’s ambition in contradiction with its historical documents」より続き。
 なおここでいう「歴史的ベトナム」とは、植民地時代以前の王朝時代を指すと考えていただきたい。
 歴史的ベトナムの史書は、『大越史記全書』と、『大南寔録前編』しかまだ通読していない。どちらも通史である。
 そんな貧弱な経験ではあるが、それでも原則的な問題点は引き出せる。ことは儒教の根幹に関わる問題であるからだ。
 上記二書の項でそれぞれ書いたが、『大越史記全書』では、干支―自国年号の順でしるされ、さらにその下に割注の形で中国年号が挿入される。『大南寔録前編』では年号が干支のほかに越・中二つの元号が併記されている。またどちらもが、中国皇帝を「皇帝」「帝」と書く一方で、自国ベトナムの君主も「皇帝」「帝」あるいは「上」と記す。どちらもが「勅」や「詔」や「諭」を発する。そしてベトナムの皇帝は中国皇帝とおなじく、「朕」と称する。
 これだけで、ベトナムが冊封体制を便法としか見ていなかったことがわかる。さらにいえば、冊封体制を成り立たせている伝統中国(王朝時代中国)の華夷思想(いわゆる中華思想)をすら、認めていないことがわかる。冊封体制もしくは華夷思想においては、皇帝とは中国(=天下宇宙の中心の意)にただ一人しかいないからである。二人いたら世界が崩壊してしまう。このことについては、ベトナムとならんで伝統中国の代表的な三属国とされる朝鮮と琉球は律儀にこの建前を守った。彼等は冊封されたとおりに「王」を名乗りそれを国内でも通した。それをベトナムは、中国に対してのみ王として臣下の礼を取ったが、国内およびその他の国(東南アジア諸国)に対しては、「皇帝」としてふるまった。11世紀の有名な李常傑(リ・トン・キェト)のこれも有名な――ベトナムの歴史教科書にも載っているくらいの――詩をここでも引かねばならない。

 南國山河南帝居 (南国の山河は南帝の居)
 截然分定在天書 (截然として分かち定むるは天書にあり)
 如何逆虜來侵犯 (如何にして逆虜は来たりて侵犯す)
 汝等行看取敗虚 (汝等行きて敗虚を看取せよ)

 北(中国)と南(ベトナム)にそれぞれ皇帝がいるのが当然という世界観は、到底、「天に二日無し、土に二王無し」というまさに正統的(?)な中華思想と相容れるものではない。ちなみに正統とは一つの天下、一つの中国、一つの皇帝ということであるから、正統論とはつまりは大一統思想の謂でもある(→拙稿「中国はなぜ台湾統一に固執するか」参照)。
 こうしてみると、歴史的ベトナムは、冊封体制を内心は認めていなかっただけではなく、正統論そのものを受け入れていなかったということになる。ベトナムは型式としてのみ冊封体制のみを受け入れ、正統論は拒絶し、華夷思想も自分に都合のよいふうにしか――自分も中国だという形で――とりいれなかった。
 もしかしたら、ベトナムは冊封体制・華夷思想・正統思想のどれもまったく理解していなかったといってもいいのかもしれない。これら三つはイコールで繋いでもいいくらいに一組の存在で、どこかを取ってどこかを捨てるというような部分的な取捨選択はできないからだ。皇帝と中国(天下)がこの世に二つあっては正統論も華夷思想も成り立たないし、天下(宇宙)が複数あっては皇帝がその天下における自分以外のすべての人間=臣下をその地位に任じるのが趣旨であるところの冊封体制もなりたたない。正(ただ)しきもの(皇帝、中国、天下)はただひとつしかなく、ただひとつだから義(ただ)しいのである。この正統論(および華夷思想・冊封体制)の原則――あるいは根本原理といっていいのかもしれないが――に、違うことは決して許されない。ところが、ベトナム人はこの根本原理を受容しなかった。
 そっちの勝手な都合ではないかと受け入れを拒否したのか、あるいは理屈で理解できないからと無視したのか、そこはわからない。しかしただ確かにいえることは、現実に照らしてフィクション、同時に便法と見なしたことである。『大越史記全書』では、歴代ベトナム君主は、皇帝として即位したあとで、「中国(の皇帝)に冊封を求めた」と平気でしるす記事がいくらも出てくる。皇帝が冊封されるなど原理的にありえない。中国では金輪際ありえない話である。あってもなかったことになっている(事実としては五代十国時代に後晋の皇帝と北漢の皇帝が遼〔契丹〕皇帝から冊封されている。また南宋皇帝は金皇帝から冊封されて臣下扱いされていた)。だがベトナムではそれが対中国との外交上(より正確にいえば、円滑な貿易関係の維持とおのれの安全保障上の必要から)、平然とその行動を取った。そして史書を見る限り、それがおかしいとか恥だとかという批判や論議の対象になったことはない。

 これらの点において、歴史的ベトナムは、王朝時代の朝鮮や沖縄とはまったく違っている。
 朝鮮は、新羅時代のほか、高麗時代の末期に、みずからの年号を建てた例がわずかにあるが、李氏朝鮮時代に入ってからは、中国(明・清)を「天朝」と敬い、中国の正朔を奉じ、中国から冊封されたとおりに「王」と自称した。これは中国に対するだけでなく、国内においても同じであった。私文書でさえ中国の年号が用いられている。
 沖縄(琉球王国)も忠実な冊封体制・華夷思想のよき生徒であったことは朝鮮と同じである、琉球王国が中国の冊封を受けて朝貢を始めるのは明朝からであるが、明清時代を通じて年号は日本向けを意識した文書(つまり和文で書かれた)場合をのぞき、内外をとわず公文書では中国の年号が使用されたという。私文書でも漢文(漢詩文)の場合はそうであったはずである。
 沖縄の史料をむろん全部見たわけではないが、それはそのはずである。漢文(古代漢語というより後世まで使われた古典中国語・文言文)は、儒教イデオロギーを表現するための言語である。儒教イデオロギーというのはひとことでいえば礼(=華夷思想、具体的には冊封体制)の体系といっていいだろう。そこでは皇帝は一人しかおらず、皇帝は世界という空間のほか時間をも支配する存在であるから皇帝を認めれば皇帝の定める元号も受け入れないと撞着していまうことになる。当然ながらそれ以外の人間は、臣でありせいぜい最高でも王でしかない。それも皇帝から冊封してもらわなければその地位はみとめられず、僭称となって「主」呼ばわりされる。朝鮮と琉球はこのフィクションを真実として受け入れておのれを夷と位置づけ、真面目に遵守した。(のち日本にも支配された琉球の苦衷と悲劇はこの真面目さにあったと、私は思っているが、それはさておく。) だがベトナムは、冊封体制を便法、ただの手段としてしか考えていなかった。それはなぜかというと、華夷思想を最初から「自分だって中華だ」として、正統論の受け入れを拒否していたからである。だからといって私はベトナム人が不真面目だったといっているわけではない。彼らはおのれのもとからの価値と主体性とを守ることに真面目だったのである。私が以前に書いたベトナムは儒教を表面的にしか受け入れなかったのではないかという発言はこういった歴史的文脈についての私なりの理解をふまえてのものである。