従来、日本思想史、中国思想史を論ずる学者がつねに問題としたのは、自然と作為の区別であり、朱子学(あるいは儒教一般)論にあっては、自然法則と人間法則とが分離しているか、いまだ未分離であるか、という点を、その思想の近代思想であるかの否かの証拠とした。わたくしの見るところでは、この点はわが国の思想史家において、ほとんどひとつの公理と化し、もっとも有効なリトマス試験紙と見なされてきたといってよい。しかしながら、それは果してそれほど普遍的に妥当すべき公理でありうるであろうか。それは要するに、キリスト教的ヨーロッパの思想史においてそのような経過が見られた、というだけのことにすぎないのではなかろうか。 (「堯舜民主政?」本書76頁)
私の意見。
普遍的に妥当すべき公理であるかどうかは知らない。思想・哲学においてはそもそも「普遍」も「近代」も尺度としてそれほど重要度をもたないであろう。それは著者もよくおわかりのことだと思う。「キリスト教ヨーロッパの思想史においてそのような経過が見られた、というだけにすぎないのではなかろうか」という指摘も、あるいはそうかもしれぬ。ただ問題は、近代社会および国家というものがその「キリスト教ヨーロッパの思想史においてそのような経過が見られた、というだけにすぎない」かもしれぬ「公理」、すなわち自然法則と人間法則とを分離して考えること、に基づいて成り立っていることであり、それを否認・否定することは、いわゆる「近代化」に背を向けて「前近代」の裡に跼蹐する途を選ぶということに他ならぬということなのである。
(筑摩書房 1997年10月)
私の意見。
普遍的に妥当すべき公理であるかどうかは知らない。思想・哲学においてはそもそも「普遍」も「近代」も尺度としてそれほど重要度をもたないであろう。それは著者もよくおわかりのことだと思う。「キリスト教ヨーロッパの思想史においてそのような経過が見られた、というだけにすぎないのではなかろうか」という指摘も、あるいはそうかもしれぬ。ただ問題は、近代社会および国家というものがその「キリスト教ヨーロッパの思想史においてそのような経過が見られた、というだけにすぎない」かもしれぬ「公理」、すなわち自然法則と人間法則とを分離して考えること、に基づいて成り立っていることであり、それを否認・否定することは、いわゆる「近代化」に背を向けて「前近代」の裡に跼蹐する途を選ぶということに他ならぬということなのである。
(筑摩書房 1997年10月)