goo blog サービス終了のお知らせ 

書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

島田虔次 『隠者の尊重 中国の歴史哲学』

2011年12月30日 | 東洋史
 従来、日本思想史、中国思想史を論ずる学者がつねに問題としたのは、自然と作為の区別であり、朱子学(あるいは儒教一般)論にあっては、自然法則と人間法則とが分離しているか、いまだ未分離であるか、という点を、その思想の近代思想であるかの否かの証拠とした。わたくしの見るところでは、この点はわが国の思想史家において、ほとんどひとつの公理と化し、もっとも有効なリトマス試験紙と見なされてきたといってよい。しかしながら、それは果してそれほど普遍的に妥当すべき公理でありうるであろうか。それは要するに、キリスト教的ヨーロッパの思想史においてそのような経過が見られた、というだけのことにすぎないのではなかろうか。 (「堯舜民主政?」本書76頁)

私の意見。

 普遍的に妥当すべき公理であるかどうかは知らない。思想・哲学においてはそもそも「普遍」も「近代」も尺度としてそれほど重要度をもたないであろう。それは著者もよくおわかりのことだと思う。「キリスト教ヨーロッパの思想史においてそのような経過が見られた、というだけにすぎないのではなかろうか」という指摘も、あるいはそうかもしれぬ。ただ問題は、近代社会および国家というものがその「キリスト教ヨーロッパの思想史においてそのような経過が見られた、というだけにすぎない」かもしれぬ「公理」、すなわち自然法則と人間法則とを分離して考えること、に基づいて成り立っていることであり、それを否認・否定することは、いわゆる「近代化」に背を向けて「前近代」の裡に跼蹐する途を選ぶということに他ならぬということなのである。

(筑摩書房 1997年10月)

王力雄著 馬場裕之訳 『私の西域、君の東トルキスタン』

2011年12月30日 | 地域研究
 2011年12月12日「なぜ湖南省の常徳市桃源県地域は『ウイグル族第二の故郷』と呼ばれるのか」より続き。
 ツイッターのほうで、湖南省のウイグル族のことについて、この書に言及があると教示いただいたので、確かめる。
 監修者の劉燕子氏が「解説」を書いていて、たしかにその中にあった(劉氏は湖南省の出身である)。翦伯賛のことも出てくる(456頁)。
 ただ首をかしげるのは、湖南のウイグル人は高昌ウイグル国の末裔である(=遊牧ウイグル)と書いておきながら、現代のウイグル人と無条件に同一視しているところである。少しでも歴史を知っていたらありえない話である。もっとわからないのは、おなじ湖南人でありながら、翦伯賛に“ジェンポツァン”と北京語(普通話・標準語)の発音でルビをふっていることだ。その無神経さにおどろく。これは湖南方言(湘語)でふるべきところだろう。さらにいえば普通話に濁音はない(ピンインの“j”は“ジ”ではなく息の出ない“チ”音というだけの意味)こと、百もご存じの筈である。耳の悪い素人の日本人がふったようなルビだと言われてもしかたがない。中国研究の専門家、さらには中国語のネイティブとは思えないほどの粗末さである。いったい何を考えておられたのか。
 
(集広舍 2011年1月)

「このロボットはガス漏出を探知できますが、そのガスを爆発させる恐れがあります」

2011年12月30日 | 
▲「シンシアリーのブログ」2011-12-30 08:08:20。
 〈http://ameblo.jp/sincerelee/entry-11120973279.html

 ビルの階段が上れない消火ロボット、ガスによる(もしくはその危険性のある)火災現場でさらなるガス爆発を誘発しかねない偵察機。想定外の壁が近すぎる。というより、何も想定せずに作りたいものを作っただけではないのかと疑う。観察せず、検証せず。観察に基づかない仮説は妄想でしかなく、検証されない妄想は脳内に何時までも残留する。笑いごとではないよ、これ。