前野直彬/中野三敏/尾藤正英訳。
「聖人学んで至るべし」の主張を否定した荻生徂徠は、この点、儒教徒ないし思想家としてはおのれが否定し去った宋儒よりも後退している。聖人の作った法律制度がその故だけになぜ価値があり貴いのか、説明できないからである。つまり彼の頭脳は、「原道」を書いた当時の韓愈(西暦768年 - 824年。唐代の人)と同じ水準にまで退化している(注)わけで、この点に限って言えば、到底近世の人間とは思えない。政治家として、道を礼楽刑政(伝統および法律)に限定し、その権威(とくに法と政令の)を確立したかったという意図はわからないでもないが、それなら聖人が定めたと経典で伝えられる法や制度以外のものやことは、一切新規には作れぬことになろう。自縄自縛である。それとも「自分(権力者)は別」という勝手な論理で通るとでも思っていたのか。徂徠というのも根本のところで存外頭の悪い奴だなという感想。それとも政治に与る者によく見られる横着さの現れか。要するにこれも便法、とにかくはかが行けばいい、世の秩序と安寧が保たれればいいという。彼の業績には政治技術と倫理道徳とを分離したという意義があるとされるが、それは果たして意図してのことか? ちょっと疑問である。
注。有聖人者立,然後教之以相生養之道。為之君,為之師,驅其蟲蛇禽獸,而處之中土。寒,然後為之衣,饑,然後為之食;木處而顛,土處而病也,然後為之宮室。為之工以贍其器用,為之賈以通其有無,為之醫藥以濟其夭死,為之葬埋祭祀以長其恩愛,為之禮以次其先後,為之樂以宣其湮鬱,為之政以率其怠倦,為之刑以鋤其強梗。相欺也,為之符璽鬥斛、權衡以信之;相奪也,為之城郭、甲兵以守之。害至而為之備,患生而為之防。今其言曰:「聖人不死,大盜不止;剖鬥折衡,而民不爭。」嗚呼!其亦不思而已矣!如古之無聖人,人之類滅久矣。何也?無羽毛鱗介以居寒熱也,無爪牙以爭食也。 (「維基文庫」「原道」から)
(中央公論社 1974年12月初版 1982年10月再版)
「聖人学んで至るべし」の主張を否定した荻生徂徠は、この点、儒教徒ないし思想家としてはおのれが否定し去った宋儒よりも後退している。聖人の作った法律制度がその故だけになぜ価値があり貴いのか、説明できないからである。つまり彼の頭脳は、「原道」を書いた当時の韓愈(西暦768年 - 824年。唐代の人)と同じ水準にまで退化している(注)わけで、この点に限って言えば、到底近世の人間とは思えない。政治家として、道を礼楽刑政(伝統および法律)に限定し、その権威(とくに法と政令の)を確立したかったという意図はわからないでもないが、それなら聖人が定めたと経典で伝えられる法や制度以外のものやことは、一切新規には作れぬことになろう。自縄自縛である。それとも「自分(権力者)は別」という勝手な論理で通るとでも思っていたのか。徂徠というのも根本のところで存外頭の悪い奴だなという感想。それとも政治に与る者によく見られる横着さの現れか。要するにこれも便法、とにかくはかが行けばいい、世の秩序と安寧が保たれればいいという。彼の業績には政治技術と倫理道徳とを分離したという意義があるとされるが、それは果たして意図してのことか? ちょっと疑問である。
注。有聖人者立,然後教之以相生養之道。為之君,為之師,驅其蟲蛇禽獸,而處之中土。寒,然後為之衣,饑,然後為之食;木處而顛,土處而病也,然後為之宮室。為之工以贍其器用,為之賈以通其有無,為之醫藥以濟其夭死,為之葬埋祭祀以長其恩愛,為之禮以次其先後,為之樂以宣其湮鬱,為之政以率其怠倦,為之刑以鋤其強梗。相欺也,為之符璽鬥斛、權衡以信之;相奪也,為之城郭、甲兵以守之。害至而為之備,患生而為之防。今其言曰:「聖人不死,大盜不止;剖鬥折衡,而民不爭。」嗚呼!其亦不思而已矣!如古之無聖人,人之類滅久矣。何也?無羽毛鱗介以居寒熱也,無爪牙以爭食也。 (「維基文庫」「原道」から)
(中央公論社 1974年12月初版 1982年10月再版)