ポポロ通信舎

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【中学下宿記】(3) 「先生」だった母

2009年09月24日 | 中学生下宿放浪記
創設期の女子寮の中は連日、てんやわんやの大忙しさでした。
母は次から次と仕事に追われ、私とじっくり話す時間は限られていた。

寮には私より3才上のお姉さんたちが、主に東北地方各県を中心に
集まり新しい生活を始めていました。そこでは母は“先生”と呼ばれ
ていた。
一つひとつ規則を定め、厳しい管理体制を創り、礼儀作法、果ては
躾に至るまでうるさく?指導し、たしかに私から見ても「先生」に
ふさわしく感じた。
しかし一方では、ホームシックに陥る寮生には実の母親のような
優しさで接していた。

男子寮生からは、女子寮では寮母を先生と呼んでいることに、あざけた
声があることも母の耳に入っていた。私も後に、その男子寮生の一員と
なったが、男子寮生と男子寮監の距離感は、とても女子寮生と女子寮母
との親密な関係には及ばず、その比ではなかった。

母には、寮生の日常生活は全責任を持つ、そのためには厳しく接すると
いう信念が感じられた。寮生を狙い襲いかかる無法者、変質者などの
外敵に対しては、体を張って防戦していた。
現役寮生はもちろん、後には退寮OGの家庭内騒動にも相談にのっていて、
今でいうDV(家庭内暴力、デート暴力)夫や男とサシで対峙したことも
一度や二度ではなかった。

「先生」呼称を母に尋ねると、その管理方式は戦時中の東京芝浦電気
(東芝)の寄宿舎を範にしていると教えてくれた。
戦前・戦中の東芝方式は、戦後教育で育った若者たちには少々きびし
すぎたかもしれません。その点については、
「最初の一期生、二期生が寮の大事な礎(いしずえ)になる。家庭でも
長女、長男をしっかり教育してレールを造れば以下は良く育つ、それと
同じ」と語っていました。

三洋電機は男子寮は会社の敷地の外に一方、女子寮は会社の構内に保護
されているかのように位置していました。これは女子寮生を守る治安の
面で良かったと思います。
西小泉駅から三洋東門までの道のりだけでも、痴漢や今でいうストーカー
がずいぶん出没していた。妙齢な乙女たちは、常に性的な誘惑、暴行の
危険にさらされていたのです。男子中学生の私でさえ、同じ道で不良集団
に因縁をつけられ危うく襲われかけたことがあります。

早めの門限設定、それを厳守し、仕事に専念できる規則正しい団体生活。
まだ15、6才の女子寮生たちを悪者から守ることで母は苦心さんたんして
いるようにみえました。

当時、寮は1部屋に5人。どうしても2対3のような形で不和になること
が多い。当の寮生の皆さんたちもよく頑張りました。今の時代では想像が
つかないほどの生活条件でした。部屋の内紛のたびに、母の所には、入れ
替わり立ち替わり相談者の姿が絶えることがありませんでした。
また、なんといっても多かったのはホームシックにかかった寮生たち。

ある時、居合わせた私を母が指して「この子も皆さんより3才も年下なのに、
すでに親と離れて暮らしているのですよ、もうこの子から見たら皆さんは、
ずっとお姉さんなのですからしっかり頑張らないと!!」と励ましていた。
しかし、実は言われた当の私も母が恋しくて恋しくて、寮生のみなさんに
負けないくらいホームシック状態で、母なしの暮らしにはすでに限界に
達していたのです。
ですから女子寮生の皆さんの辛い気持ちを聞きながら、心の中では一緒に
泣いていました。。   (つづく)


【写真】女子寮機関紙「ポプラ」。
コメント (2)
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