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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■悪からお救いください / 関根弘興

2017年03月20日 | Weblog
2017/3/20放送

世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
イエス・キリストはご自分と共に生活していた弟子たちに、どのように祈ったらいいのかを教えられました。教会では「主の祈り」として毎週礼拝で祈られているものです。この祈りの後半部分、こんな祈りが出てきます。
 「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」(マタイ 6章13節)
という祈りです。 

 「試み」とは試練ですねえ。試練は良い意味では「訓練」、悪い意味では「誘惑」とも訳せるんです。聖書は人生に起こる試練をいつも前向きに捉えるように勧めています。新約聖書のヤコブの手紙1章2節(、3節)にはこう書かれています。
 「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。」このように書かれているんです。

 試練は辛いです。私たちは時々、試練を前向きにとらえることができずに、その試練が悪しき方向に向かわせてしまう危険というものがあるんですね。だからイエス様は、私たちを悪しき方向に向かわせるような試練にあわせないでください、と祈りなさいと教えられたんです。私たちの人生には必ず試練が襲います。試練に遭うと失望し、落胆し、生きていくことが辛くなってしまうことがあります。人生なんて虚しい、聖書を読んでも教会に行っても意味が無い、神様の愛なんて信じられない、そんなふうに思ってしまうことはあるでしょう。ですから、様々な試練によって悪に向かうことが無いように、神様から離れるようなことが無いように、その試練によって自分を傷付けることにならないように、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」と祈り続けることが大切なんです。

 聖書にはこう記されています。新約聖書第一コリントの手紙10章13節
 「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

 私たちは試練にあった時も、聖書の約束の一つ一つを信じ、神様が必ず守り救ってくださることを信頼し、「試みに会わせないで、悪からお救いください。」と祈り続けて行きましょう。

 (PBA制作「世の光」2017.3.20放送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■聖霊の働き/羽鳥頼和

2017年03月18日 | Weblog
2017/3/18放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
今日から二週に渡って旧約聖書ゼカリヤ書からお話しします。ゼカリヤ書が書かれたのはバビロンによって破壊されたエルサレムの神殿の再建工事が様々な妨害によって中断され、長い年月が経ってしまっていた頃でした。その頃、人々に神のことばを伝えたのがゼカリヤです。ゼカリヤ書はそのゼカリヤに与えられた神のことばが記されている預言書です。再建工事が全くストップしてしまっているときに、神は幻を示してユダヤ人に励ましを与えられました。

 幻の預言はまず三つの励ましを与えました。それはまず第一に、神がユだとその周辺に平和を保っておられること。第二に、神殿再建の邪魔をする人々を神が裁かれること。そして三つ目が、神が城壁が壊されてしまっているエルサレムの町を護ってくださるということでした。

 そしてゼカリヤ書の4章でゼカリヤが見せられた幻が、一つの金の燭台と二本のオリーブの木でした。その燭台には油を入れて火を灯す灯火皿が七つついています。そして二本のオリーブの木は金の燭台の両側に立っています。その二本の木から燭台の七つの灯火皿に油を供給するようになっています。この幻は祭司と王の二人が神によって力を与えられて神殿を完成させること、そしてその神殿再建が神の栄光を世に示すことになるということを預言しているのです。

 神はゼカリヤに「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。」(ゼカリヤ書 4章6節)と言われました。このことばは神殿の再建という大事業は、物質的な資源や人の力によってではなく、神の霊すなわち聖霊の働きによって完成されるということを教えています。

 神の聖霊は今でも大きな働きをしてくださっています。エルサレムに神殿を完成してくださった聖霊は、今はキリストの教会をより良いものとするために働いてくださっています。

 明日は日曜日です。ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2017.3.18放送でのお話より )
 
***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■キリストとともに歩む/岩井基雄

2017年03月17日 | Weblog
2017/3/17放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第三週の金曜日はマルコの福音書から学んでいます。

 先月は、安息日に手の不自由な人をキリストが癒され、真の解放と喜びを与えられたところから学びました。今日はイエス・キリストが12人の弟子たちを選ばれた、その箇所から一緒に学びたいと思います。

 もしあなたが自分の弟子を選ぶとしたら、どんな人を選ぶでしょうか。イエス・キリストが弟子として選んだ12人は、どちらかと言うと無学で欠けの多い人たちでした。しかしキリストは敢えて彼らを選び任命しました。その目的が聖書に三つ記されています。
聖書をお読みします。
 
 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
   新約聖書 マルコの福音書 3章14節から15節

 キリストが12人の弟子を選び、任命した理由は、第一に彼らを身近に置くためでした。彼らと一緒にキリストはこの後3年ほど共に生活をします。彼らはキリストの言動をつぶさに見て学ぶために弟子として選ばれ招かれたのです。イエス・キリストと共にいてイエスがどのように考え人と接し、何を為し何を語られたのか、それを学び続けることが弟子の第一目的なのです。それは私たちにとっても大切なことです。目には見えなくてもイエス・キリストはどんな時にも私たちと共におられます。いつも心をキリストに向け、キリストがこの場におられたら何を語りどう行動するのかを思い巡らし、そして歩んで行くのです。

 弟子の選びの第二の目的は、福音を宣べ伝えるためでした。神様は人を用いてくださるお方です。どんなに弱く愚かな者をもキリストは整え続け、そして愛と恵みを届くていくために、その人を豊かに用いてくださるのです。

 そして第三の目的は、権威を持たせるためでした。罪深い者をもキリストは愛し赦し、その人を通して神の愛と義の権威が現わされていくというのです。何と不思議なそして豊かな憐れみと恵みでしょうか。その人を通して癒やしをも主は与えてくださるからです。イエス・キリストはあなたを愛し、あなたを選び、用いようとしていらっしゃいます。あなたも自分の愚かさとそして罪を認め、イエス・キリストを心に迎え、その愛と生き方を学び、愛と恵みを届ける人生へと歩み出しませんか?
 
 PBA制作「世の光」2017.3.17放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■万物を造った主/福井 誠

2017年03月16日 | Weblog
2017/3/16放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「砂漠を主の園のようにする」です。それではイザヤ章44章24節から読んでみましょう。
 「あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。『わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。』」

 今日の箇所は聖書学者の間でもいろいろと議論のあるところですねえ。というのもイザヤ書は、その内容から大きくいくつかに区分されるのですが、この45章含む40章以降はどうもイザヤが生きていた時代よりもちょっと後のことを語っているようなのです。果たしてそんなに遠い将来のことを、しかも具体的にイザヤはどうして語り得たのだろうか、と疑問が投げかけられているのですねえ。

 私自身はこの箇所はイザヤが神に遠い未来の秘密を解き明かされた、つまり預言的な内容なのだと理解していて、大事にしたいのはここで語られているメッセージの内容です。「あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。『わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。』」

 神は、明らかにご自身を天地の救い主として示していますね。つまり、造られる者ではなく造った者だと言うのです。

 確かに神という存在を考えたときに、神が人間を造られることがあっても、その逆、人間が神を造り出すことはできないものでしょう。イザヤが言うように、どんなにナタを使い、金槌を使い、カンナで削り美しい形に仕上げても、それが人間を救い人間の未来を動かす力を持つ神になることはありません。しかし人間は神を手でこしらえ、商売繁盛、無病息災、家内安全を期待しますね。もはや人はそういう原始的迷信的な信仰から解放されなくてはなりませんね。むしろ、神がおられるとしたら、その方は造られることのない方、むしろ私たちをお造りになった方として認めていきたいものです。

 私たちが神をどのような方として認識するのか、それは私たちの人生を左右します。まことの神を恐れ信じる者でありたいものです。

(PBA制作「世の光」2017.3.16放送でのお話より )

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■青銅の蛇 / 板倉邦雄

2017年03月15日 | Weblog
207/3/15放送

  世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「青銅の蛇」という題でお話ししましょう。

 「青銅のキリスト」という題の絵画を見たことがありますが、何のことかさっぱり分りませんでした。しかし民数記の21章を読んで理解できました。

 さて、イスラエルの人々はエドムの国の境界線をぐるりと回るように旅を続けました。遠回りだけでも辛いのに、道なき道を歩くのですから、人々は旅路に耐えがたくなってまいりました。再び人々は神様とモーセに向かってつぶやきました。「あなたはなぜ私たちをエジプトから導き上って荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく水もありません。私たちはこの粗悪な食物が嫌になりました。」

 人々はイライラした不満の気持ちを、持っていた棒や杖で薮を突っついたりまた足で砂漠の砂を蹴ったりしたのではないでしょうか。

 そこで主なる神は毒蛇を人々に送られたのです。毒蛇は人々に噛みつきました。激痛の中で多くの人々が死んでいったのです。人々は神様と神の人モーセに不平不満をぶつけたことを後悔しました。人々はモーセのもとに行ってお願いしました。
 「私たちは神に向かいまたあなたに向かってつぶやいて罪を犯しました。どうぞ蛇を私たちから取り去られるように主なる神に祈ってください。」

 モーセは人々のために祈りました。すると主なる神はモーセに応えられたのです。
 「青銅の蛇を作ってそれを高い竿の上に懸けなさい。すべて蛇に噛まれた人が仰いで青銅の蛇を見るならば生きるであろう。」

 モーセは言われた通り青銅で一つの蛇を作り、それを竿の上に懸けて立てておいたのです。既に蛇に噛まれた者はその青銅の蛇を仰いで見て生きたのでした。

 イエス様は、この荒野での青銅の蛇事件を自分に当てはめて、こう言われました。
 「モーセが荒野で蛇を上げたように人の子であるわたしもまた十字架の木の上に上げられなければならない。それは信じて仰ぎ見る者がみな人の子 -イエス・キリスト- にあって永遠のいのちを持つためである。」
  ヨハネの福音書3章の14節から15節(参照)

  (PBA制作「世の光」2017.3.15放送でのお話より )

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■十戒 - 自由への励まし6 / 大嶋重徳

2017年03月14日 | Weblog
2017/3/14放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
聖書には十戒と呼ばれる、神様と人との間に結ばれた愛の約束があります。
 今朝も十戒の第一戒を見ていきたいと思います。
 これまでも十戒は愛の約束であって結婚式の誓約のようなものだと学んできました。このあとに続く第一戒の「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(出エジプト記 20章3節)ということばが全く違って聞こえてくることとなるでしょう。

 十戒第一戒は「ほかの神々があってはならない」と非常に厳しい一神教の神を語っているとされて、他の宗教の神を認めない器が狭い神だと理解される原因となってきました。しかし十戒が結婚の誓約のような約束であるならば、この理解には問題が出てきます。例えばもし私の妻が私に対して「私が他の男性と関係を持っても良いでしょう? あなたは器が狭いね。」と言われたら「おおそうかあ。それを怒るのやっぱり寛容じゃないか・・・」と反省したりはしません。また「いいよ。じゃあ他の誰とでもいい関係を自由に持ったら。別になんでもいいよ。」と私が言うのであれば、それは愛の放棄です。私も妻から「あなたがどんな女性と時間を過ごそうと私は全然平気。」と言われると、本当に愛してくれてんのかなあ?、と不安に思ったりするでしょう。十戒の持つ性格が愛なのであれば、あなたはわたしのもの、と言われる神様にとっても、他の神々への心移りがあってはならない、というのは当然のことです。

 ここで「わたしのほかに」ということばをもともとの言語に正確に訳するならば、「わたしの前で」「私の顔の前で」という意味になります。あなたはわたしの顔の前で -神様の眼差しを受けながら- 生きて欲しい、と言うことを意味しています。今朝も神様は私たちに「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」と語られます。他のものを見ないで欲しい、わたしだけを見て欲しい、と語られるのです。十戒は、続く第二戒で「わたしはねたむ神」と言われます。あなたが他のものを見つめているとわたしは嫉妬する、とこんなにはっきりと情熱を表す神様だと御存知だったでしょうか。 十戒に示される神様は厳しい神様ではありません。むしろ激しい愛情の神です。この神様の愛を今朝も感じながら、皆さんも激しく神様への愛を燃えたさせていっていただきたいと思います
 
  ( PBA制作「世の光」2017.3.14放送でのお話しより )

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■負い目をお赦しください / 関根弘興

2017年03月13日 | Weblog
2017/3/13放送

世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
イエス・キリストはご自分と共に生活していた弟子たちに、どのように祈ったらいいのかを教えられました。教会では主の祈りとして毎週礼拝で祈られているものですが、この祈りの後半に、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(マタイ 6章12節)という祈りが書かれています。
 
 負い目とは負債のことですから、私たちの負債を赦してくださいという祈りなんですねえ。いや、私は誰からも負債など負っていない、と思う方もいらっしゃるかもしませんね。でも、考えたことありますか? 私たちは天の父なる神様にどれだけ大きな負債を負っていることでしょう。「日ごとのパンを与えてください」と祈りながら、与えられればまるで自分の力で得たかのように振る舞い、感謝もないということが多いのではないでしょうか。命を与えられ日々生かされていることをまるで当然のように思ってしまうことがあるかもしれません。そのように神様の恵みを忘れ、神様と自分の生活がまるで関係が無いかのように振る舞う姿を聖書では罪だと言ってるんですねえ。ですからこの箇所の文語訳(聖書)は「我らの罪を赦したまえ」と訳されているんです。

 聖書は「すべての人は罪を犯したのだ」と教えています。私たちはみんな神様に背を向け、神様を無視して自分の内面も人間関係においてもずれた状態にあるのだと教えるんです。神様に損害を与え、神様に多くの負債を背負っている存在だと聖書は教えているんですねえ。そして自分でその罪の負債を清算することなど到底できないんです。

 しかし聖書の素晴らしいメッセージは、イエス・キリストが私たちの負債をすべて背負って十字架についてくださり、その事によって私たちの負債は免除され、罪の赦しが与えられたんだと教えるんですねえ。私たちは、イエス様を救い主として信じ受け入れるだけで、罪の負債がなくなり罪の赦しを受けることができるんです。「負い目をお赦しください」と祈り、イエス様の十字架によって赦されてることを確信していくんです。そしてこのイエス様の圧倒的な赦しの中に生かされているからこそ、私たち一人ひとりが人を赦すことができる者と少しずつ変えられていくんです。

 (PBA制作「世の光」2017.3.13放送でのお話しより)

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■上からの知恵 / 羽鳥頼和

2017年03月11日 | Weblog
2017/3/11放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

今日はヤコブの手紙3章で教えられている「知恵」についてお話しします。普通、知恵というと賢いという意味で使われます。ですから知恵とは良いことであると思っています。また知恵は人の知能とか知性を指して使われます。そんな人の知能に対して最近注目を集めているのが人工知能です。この人工知能に関してこんな予測があります。
 2045年に人工知能の性能が全人類の知性の総和を超える、と言うのです。人工知能が自らを規定しているプログラムを自身で改良するようになるとどんどんと進化を遂げる。この結果、ある時点で人間の知能を越え、それ以降の発明などはすべて人間ではなく人工知能が担うようになるだろう、というのです。このような予測が出て来るということは、知恵は蓄積して増えるものであり、人間以外の電子回路も持つことができるということなのでしょうか。

 聖書が教えている知恵はこのようなものとは違います。新約聖書ヤコブの手紙3章では、まず知恵には良いことができる知恵と悪いことをする知恵があることが教えられています。
 「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。・・・そのような知恵は、上から来たものではありません。」(13節~15節)

 「上から」とは神からということです。神が与えてくださる知恵によって人は良い生き方ができるのです。神が与えてくださる素晴らしい知恵についてヤコブの手紙3章はこのように教えています。

 「上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」(17節)

 神が与えてくださる知恵は愛に満ちたもので、人工知能のそれとは随分違うのです。そしてヤコブの手紙は、神が知恵を与えてくださるように祈りなさい、と勧めています(ヤコブ 1章5節参照)。

 明日は日曜日です。神からの知恵をいただくために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2017.3.11放送でのお話より )
 
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■主の不思議な憐れみと導き / 岩井基雄

2017年03月10日 | Weblog
2017/3/10放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 月の第2週の金曜日は旧約聖書に登場するヨセフの人生について学んでいます。父ヤコブの寵愛を受け、兄から恨まれ、殺されかけたヨセフでしたが、長男ルベンの指示に従って命は守られます。しかし四男ユダの提案により、ヨセフは奴隷として売られ、エジプトへと連れて行かれてしまいました。兄たちはその事を父ヤコブには隠し、剥ぎ取ったヨセフの長服に雄山羊の血を塗り、まるで獣に襲われて死んだかのように細工し、父をだましたのです。

 父の深い悲しみを見る中、ユダは罪責感からか父のもとを離れていきます。しかし聖書はこのユダのそのあとを描いているのです。ユダは神様からも離れ、神様を畏れないペリシテの地に住み、カナン人と結婚をします。そして三人の男の子が生まれますが、結婚した長男を彼の罪のゆえに亡くしてしまいます。当時の習慣で長男の嫁と結婚した次男も彼の罪のゆえに失ってしまうのです。三男シェラも死ぬことを恐れたユダは、シェラが成人しても長男の嫁タマルと結婚させません。タマルの失望は小さくありませんでした。タマルは策を巡らし、遊女のように義理の父ユダに近づき子を宿すのです。タマルが誰かによって妊娠したことを知ったヤコブは彼女と罰しようとします。しかしタマルはお腹の子の父がユダである証拠を示したのです。ユダの反応を聖書はこう記しています。

 ユダはこれを見定めて言った。「あの女は私よりも正しい。私が彼女にわが子シェラを与えなかったことによるものだ。」 旧約聖書 創世記38章26節

 自分の犯した過ちや罪と向き合わずに逃げていたとしても、神様は侮られる方ではありません。神様は真実を明らかにされるお方です。しかし神様は、このユダをも見捨てず、自分の罪を認め悔い改め、神様との正しい関係に戻ったこのユダとその嫁タマルを通し、その子孫からダビデ王そして救い主イエス・キリストに繋がる子孫が誕生していくのです。神様は弱く愚かな者をも愛し、その罪を示し、心から悔い改める者を整えて用いることがおできになるのです。神様はあなたをも愛し、あなたをも豊かに用いてくださるのです。
 
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■主の前に広げた / 福井 誠

2017年03月09日 | Weblog
2017/3/9放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「主の前に広げた」です。それではイザヤ章37章14節、15節から読んでみましょう。

 「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。ヒゼキヤは主に祈って言った。

 当時の大国アッシリヤの勢いはとどまらず、イスラエルは何度も侵略を繰り返され、多くの町々を失っていきました。アッシリヤの大軍はイスラエルの首都エルサレムに近づき、これを包囲したのです。そしてアッシリヤの使者がやってきて、イスラエルに降伏を求めているのが今日の箇所ですね。もはやエルサレムの陥落は秒読みでした。そのような絶望的な状況の中で、イスラエルの王ヒゼキヤは主の宮に入ります。というのもそこが最後の砦、希望のありかだと考えたからですねえ。

 実際、預言者のイザヤはそのように物事の順序をわきまえ、まず神に助けを求めるヒゼキヤに神の恵み深いことばを伝えます。アッシリヤの大軍が自分の国に引き上げる、と。考えられないことばでした。しかしヒゼキヤは絶対絶命の中でそのことばを受け入れるかどうかの選択を迫られていきます。そしてヒゼキヤは決断しました。アッシリヤの使者からの手紙を主の宮で広げ、そして神に助けを求めていくのです。降伏でも連合を求めるのでもない、神のみわざに信頼する決断でした。聖書はその結果、アッシリヤの大軍が主の使いによってその夜の内に自滅してしまった事を伝えています。

 これは宗教的な作り話ではなく、歴史的な実話ですね。物事の順序をわきまえ、まず神を第一とし神に信頼した結果、神はヒゼキヤとイスラエルの国を助けてくださったというわけです。

 聖書は何もできない窮地の中で心を神に向けて神の約束のことばを握り締めて祈ることを教えています。天地を造られ私たちを造られた創造の神の御名を呼び求めるように教えています。あなたもヒゼキヤがしたように今手にしている問題を広げ、更にはあなたの心の内を広げて、あなたの奥深い気持ちをそのまま語ってみてはどうでしょうか。神はあなたのなすべきことを教えてくださることでしょう。ぜひ聖書を読んで神の不思議に懸けていく人生があることを知っていただきたいと思います 

(PBA制作「世の光」2017.3.2放送でのお話より )

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