2010/4/20放送
世の光の時間です。 お元気でお過ごしでしょうか。 関根弘興です。 今日も一日爽やかに過ごしていきたいですね。
新約聖書ヨハネの第一の手紙2章28節のことばを紹介します。 「そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。」
このヨハネがこの手紙を書いた頃、ちょうど紀元80年代後半から90年代の初めと言われますが、この時代はローマ帝国によってクリスチャンたちが少しずつ迫害されていった時代でもありました。 一方、教会の内部では、こともあろうにキリストに敵対する者、ま、キリストにとって代わろうとする偽キリストが出てきた、というんです。 教会では外からの迫害の手が忍び寄り、内側ではキリストにとって代わる偽キリストのような者が現れていったっていうんですねえ。 この手紙を書いたヨハネはどれほどこうした状況に心を痛めたことでしょう。 彼はこのような状況を見て、「今は終わりの時だ」と言ったんです(※)。
しかし彼が「終わりの時」と言ったのは、ああもうだめだ、という諦めのことばではありません。 私たちが「終わりだ」ということばを使うと、「もうだめだ、諦めよう」というような意味で使いますよね、「一巻の終わり」なんてことばも使いますしね。 でもヨハネが「終わりの時」と言うのは、そういう否定的な意味で使ったのではないんです。 聖書が「終わりの時」ということばを使う時は、必ず次に神様の栄光に輝く時が来る、ということが前提になっているんですねえ。 イエス・キリストに信頼する者はどんな困難があっても最終的にはイエス・キリストによる勝利が、栄光が与えられる、と確信しているんだと言うんですよ。
これはねえ私たちの人生においても実は同じなんです。 私たちはいろんな困難に遭います。 そして死を考えると「ああすべての終わりだ」と考えてしまいます。 しかし聖書は、死は人生の終わりの時であるけれども永遠の時の始まりでもあるのだ、と教えます。 要するに、人生の死という終わりの時ですらそれは通過点だ、と教えるんですね。 そしてその先には神の栄光が待っている、と言うんです。
ヨハネは内に外にある困難な状況を見た時に、危機感にあおられ、ガンバレ! がんばらなければ教会が潰れてしまうぞ! しっかりしろ、と叱咤激励したでしょうか。 そうしませんでした。 ヨハネはこうした中にあってイエス・キリストによって与えられている事実に目を留めながら、その事実の中に留まり生きていきなさい、と冷静に語るんです。 どんなことがあっても変わらない事実があるんですねえ。 何でしょう。 それは信じる者を決して見放さず捨てることのないキリストが共にいてくださる、ということです。 そして私たちはこのキリストの中に留まって生きていく、これが勝利の秘訣です。
※ 1ヨハネ 2:18 「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。」
(PBA制作「世の光」2010.4.20放送でのお話しより)
***
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
***
このサイトは URL名として
http://yonohikari.biblical.jp
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。
世の光の時間です。 お元気でお過ごしでしょうか。 関根弘興です。 今日も一日爽やかに過ごしていきたいですね。
新約聖書ヨハネの第一の手紙2章28節のことばを紹介します。 「そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。」
このヨハネがこの手紙を書いた頃、ちょうど紀元80年代後半から90年代の初めと言われますが、この時代はローマ帝国によってクリスチャンたちが少しずつ迫害されていった時代でもありました。 一方、教会の内部では、こともあろうにキリストに敵対する者、ま、キリストにとって代わろうとする偽キリストが出てきた、というんです。 教会では外からの迫害の手が忍び寄り、内側ではキリストにとって代わる偽キリストのような者が現れていったっていうんですねえ。 この手紙を書いたヨハネはどれほどこうした状況に心を痛めたことでしょう。 彼はこのような状況を見て、「今は終わりの時だ」と言ったんです(※)。
しかし彼が「終わりの時」と言ったのは、ああもうだめだ、という諦めのことばではありません。 私たちが「終わりだ」ということばを使うと、「もうだめだ、諦めよう」というような意味で使いますよね、「一巻の終わり」なんてことばも使いますしね。 でもヨハネが「終わりの時」と言うのは、そういう否定的な意味で使ったのではないんです。 聖書が「終わりの時」ということばを使う時は、必ず次に神様の栄光に輝く時が来る、ということが前提になっているんですねえ。 イエス・キリストに信頼する者はどんな困難があっても最終的にはイエス・キリストによる勝利が、栄光が与えられる、と確信しているんだと言うんですよ。
これはねえ私たちの人生においても実は同じなんです。 私たちはいろんな困難に遭います。 そして死を考えると「ああすべての終わりだ」と考えてしまいます。 しかし聖書は、死は人生の終わりの時であるけれども永遠の時の始まりでもあるのだ、と教えます。 要するに、人生の死という終わりの時ですらそれは通過点だ、と教えるんですね。 そしてその先には神の栄光が待っている、と言うんです。
ヨハネは内に外にある困難な状況を見た時に、危機感にあおられ、ガンバレ! がんばらなければ教会が潰れてしまうぞ! しっかりしろ、と叱咤激励したでしょうか。 そうしませんでした。 ヨハネはこうした中にあってイエス・キリストによって与えられている事実に目を留めながら、その事実の中に留まり生きていきなさい、と冷静に語るんです。 どんなことがあっても変わらない事実があるんですねえ。 何でしょう。 それは信じる者を決して見放さず捨てることのないキリストが共にいてくださる、ということです。 そして私たちはこのキリストの中に留まって生きていく、これが勝利の秘訣です。
※ 1ヨハネ 2:18 「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。」
(PBA制作「世の光」2010.4.20放送でのお話しより)
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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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