ふうるふうる・たらのあんなことこんなこと

いろんなできごとを面白がってしまおうと思っています。
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ちょっとした言いわけでござります

2013-02-15 09:37:17 | 本や言葉の紹介

中浦和“ふうるふうる”のたらです。
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 ずいぶん昔に読んだのでイメージしか覚えていないのですが、4コママンガのサザエさんに次のようなものがありました。
 カツオ君が歩いているときに「この野郎、三味線の皮にしちゃうぞ」みたいな意味の声が聞こえてきて、びっくりして駆けつけてみたら男の人が満面の笑みで猫をかわいがっている。その横でおばあさんがあきれてる。
  私はこのおじちゃんのセンスが好き。照れ屋でいいおじちゃんやなあと思っちゃう。でも、「好きならちゃんとかわいいって言わなきゃいけない」とか、「照れてるにしても言葉がひどすぎる」などと思う人がいるだろうな。そういうセンスの違いや受け止め方の違いは必ずあるもんね。そして、どっちが良い悪いということはないと思う。

 それはさておき、このブログを読んでくださって、「乱暴な言い方だからそういうのはやめるほうがいい」とか「言葉が汚いからきれいな言葉を使うべき」などと言ってくださるかたもいる。
 自分としては全文をひどい言葉で埋めているつもりがなく、使っていてもレトリック、言葉のあや、照れ隠しなどで意識してわざと使っているのだけれど、人それぞれセンスが違うからどうとらえられてもしかたがないなあと思いました。文章の流れから言葉の奥にあるものを感じてもらえないのは私の書き方がまだまだ未熟だから。もっと上手に書けるようにしたいです。トホホ。
 
 ただ、言葉を言葉どおりにしか理解できないのは現実世界を生きるのに難儀だろうなあと推測しております。アスペルガー症候群で当事者もまわりも大変困ることの一つはそれだし、身の回りを見ても諍いの原因が自分の価値観や見方だけにこだわって他者のそれを認めないことであることが多いみたいだし。
 一つの見方しかできないのは自分の世界を狭くしてしまうし、狭くなっているのに気がつけない。レトリックがわからない、言葉のあやがわからないのはコミュニケーションでの困難もかなりなものになるし、たとえば本を読んでも「物語」を楽しめないことだから寂しいなあと思っています。
 私はもっともっといろんな価値観や見方を知って、いろんなことをもっともっと受け入れられるようになりたい。
 
 おや、今日はまともに書いてますなあ、あらみっともなや。

 ↑ というように、まともなことを真剣にしゃべるのは恥ずかしいという思いがあって、真剣に話さざるをえないときもちゃちゃを入れたり自分でつっこみを入れたりしちゃうわけですな。テヘペロ。

 悲しいときこそ胸を張って歩き、悔しいときには笑っちゃえ、苦しいときにはおどけていよう。斜に構えるのではなく、物事はしっかりとらえたうえで気持ちや考え方を少しずらすことで息をつきやすくしたい。
 こんな気持ちがずっとあって、我ながら少しひねくれているかしらんと思っていたけど、「都会の幸福」(曽野綾子 ワック)を読んで、「なんかもやもやするんだよね、なぜかなあ」と思っていたことへの答えのひとつを見つけた気がしました。抜粋して紹介します。

 (羞恥には2種類あり、自分が相手に悪く思われないかという相手への羞恥と、自分に向けられる羞恥である。後者が都会的な羞恥)都会的な感情の一つのタイプは、ものごとが必要以上に拡大化される時に、不安を覚えるという特徴を持っている。
 (知的なこと、高潔なこと、向上心をもつこと、権威に近づくこと、金を持つこと、この道一筋に頑張ること、その他もろもろの)当然世間からはよいことだと見なされているすべてのことにさえ、それがこうじると彼らは羞恥を覚える。つまり、羞恥という形で、彼らはその判断に懐疑の眼を向けるのである。
 羞恥の結果、何がなんだかわからない行動を取る時さえある。真面目にとるべきことをふざけたり茶化したりするのはまだいい方で、重大な場面にはそれとなく居合わせないようにしたり、一蓮托生をすることや団体行動を嫌ったり、早々と諦めたり、とにかくそのことと互角に構えることを避ける態度が多い。
 実はそれが、その人にとって一本筋の通った美学の表現なのである。その懐疑の姿勢が、成熟した人間の精神の馥郁たる香りになる。
 都会的羞恥心はまた、次のような作用を及ぼす。
 彼らはやたらに外国語を使ったり、むずかしい言葉で語ったりすることを避けて、できたら軽くユーモラスに、日常的な和語で、しかも時には、不真面目に不道徳に表現しようとしたりする。外見や表現にこのような反語的ためらいがあるということは、ことに大切な要素なのである。
 言うまでもなく、それは真実内面まで、不道徳で不真面目だということではない。ただそこには「照れる」という一般的な言葉で表現される慎みがあるのである。いや、有限の生を受けた人間の能力の限度を知った上で、自分の言行に信頼をおかない、いや、おけない、という自覚を持つと、自然に、ためらいながら、照れながら、ふざけながら、できるだけ見場悪く言うようにしたくなるのである。
 (自分が「知っていること」を「知られること」の恥ずかしさは)人間を知るが故の不信感に根づいたものであり、人と人とが接触する場合に当然起こるはずの相克を予定してあまり期待しない、という姿勢を身につけたものでもあり、単純な価値観への一種の抵抗の姿勢でもある。

 うーむ、こう表現してもらえるとわかりやすいなあ。
 ぁ、私がそういう粋なヒトであるということではなくてですね、えー、つまりは曽野綾子さんの文章を私のつたない書き方や行動の言いわけに使っちゃいました。ごめんなさい。