花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

四日市湊物語 阿瀬知川をたどる

2021年08月06日 | レモン色の町

前回の文章を再掲載させていただく。

四日市の西方、常盤村あたりに源を発し、(現在四日市市立病院の建つ)芝田を流れ、やがて東海道は中浜田の東禅寺で北に折れ・・・

東禅寺裏手に現在も流れる阿瀬知川支流

江田町(えんだちょう)で久保田や堀木あたりから流れてきた支流と合流して東進・・・

湯の山街道が三滝川堤防に登る境、車の往来を横目に窪田神社がひっそりと建つ。

三滝川「石垣井堰」からの取水口

農業用水に供するため、三滝川に堰を造り、そこから左岸の野田側と右岸の久保田側に水を取り入れている。ここで取水した水は、窪田と柴田の田を灌漑している。この堰は「石垣井堰」と呼ばれ、河川改修に伴う井堰を造り替える工事が、平成12年から始まり、平成15年に完成した。現在久保田、野田の自治会が維持管理している。堰はゴム堰で、いわば風船を膨らませた形で川に堰を造り取水している。表面水、伏流水両方の水を取り入れているが、きれいな水が流れ込んでおり、上流部では源氏ボタルのえさにもなるカワニナが生息している。この川の流末は阿瀬知川になっている。 2005年 常盤のまちを考える会(取水口が出来たのは意外と新しかったのか?取水口が出来たので神社が造られたのかと思っていた)。

・・・東海道の阿瀬知川橋の下をくぐり、浜田地内(現 三栄町や幸町)を海に向かって流れる阿瀬知川がまだ畔地川と呼ばれていた昔、1600年代には、神明南で(現在の朝日町南)川は大きく曲がって北に向かい、四ツ谷地内では伊勢電鉄の線路に沿って北上し、四ツ谷の善光寺(関西線四日市駅の北)から新丁通りに沿い、ここで幅の広い入り江を形作っていた。ここの海岸は不動松原と呼ばれ不動寺があって・・・現在の不動寺

・・・境内には巨大な老松「燈篭松」がそびえていた。この不動松原の海岸こそ初代の四日市湊なのであった。

現在の阿瀬知川河口付近

 

阿瀬知川は、四日市の田畑を潤し、町に入って汚水を海へ流す役目を担っていた。

追記:下の地図は享保時代(1716~35)の四日市

川を水色に塗ってみた。三滝川(御滝川?三重川?)から取り入れたと推測される水は、諏訪神社、陣屋、不動寺を流れ海に至る。


椙山満氏の四日市湊物語①

2021年08月04日 | レモン色の町

椙山満先生は、毎回“四日市市史研究”に、興味深い投稿をされていた。もし御存命であれば、いろいろお話をお聞きしたかった。さて、今回は「四日市みなとについて」であります。

寛文年間(1661~1673)の、四日市湊の地図である。鴨長明(1155~1216)の伊勢記にこうある。

浜村というところを過ぎ侍りけるに「このほど朝気(あさけ)の郡(こほり)といふ。浜の行く先に見ゆるは、日永と人のいふ所なり」といふを聞きて詠める。

 行き侘(わ)びぬ いざ浜村に 立ち寄らむ 朝気過ぐるは日永なりけり

この浜村が、のちの浜田村になるところであり、海が近かったことを詠んでいる。

享保年間(1716ー36)の四日市町絵図(左位置の浜田村は描かれていない)

四日市の西方、常盤村あたりに源を発し、(現在四日市市立病院の建つ)芝田を流れ、やがて東海道は中浜田の東禅寺で北に折れ、江田町(えんだちょう)で久保田や堀木あたりから流れてきた支流と合流して東進、東海道の阿瀬知川橋の下をくぐり、浜田地内(現 三栄町や幸町)を海に向かって流れる阿瀬知川がまだ畔地川と呼ばれていた昔、1600年代には、神明南で(現在の朝日町南)川は大きく曲がって北に向かい、四ツ谷地内では伊勢電鉄の線路に沿って北上し、四ツ谷の善光寺(関西線四日市駅の北)から新丁通りに沿い、ここで幅の広い入り江を形作っていた。ここの海岸は不動松原と呼ばれ不動寺があって、境内には巨大な老松「燈篭松」がそびえていた。この不動松原の海岸こそ初代の四日市湊なのであった。

大正10年の不動寺 昔はこの松の下まで入江だった。龍の形をした松に灯明をつけて、燈台代わりにしたともいう(四日市の100年より)


大正ペスト騒動③

2021年08月02日 | レモン色の町

椙山 満“四日市市史研究 第5号”より

市は、ペストの蔓延を防ぐには、ネズミの根絶が急務として、殺鼠剤(さっそざい)の配布を行って、一匹2~5銭、有菌ネズミは一匹3円(今のお金で約12,000円(提出されたネズミ一匹一匹調べたのか?))という高額の賞金を出した結果、連日千匹以上のネズミが持ち込まれた。市が買い上げたネズミは、59,347匹、金額にして8,606円22銭にのぼった。今のお金に換算すると約3500万円になる。こうして大正6年春に終息を迎える。

殺鼠剤を調整する人たち

ペスト騒動の影響は大きかった。特に商工業は、休業とか販売不振におちいり、店を閉じざるを得なくなった状態が出てきた。

亜硫酸ガス発生器を使って石灰と肥料倉庫を燻蒸中

従来、四日市港を利用していた内外の船舶は、四日市港を避け、名古屋港を利用するようになり、港湾、船舶関係の労働者は休業や失業状態となって、生活が困窮するものが多数出た。また関西線四日市駅の降車客も激減した。旅館営業も成り立たなくなった。市民もほとんど家に閉じこもって外出せず、市街地は火の消えたように閑散とし淋しい風景であった。

硫化水素ガス発生器で倉庫を燻蒸中の人々

当時の飯田盛敏市長は、ペスト騒動後の再発防止や景気対策として、各方面に働きかけ、大正6年1月に“海港検疫所”を誘致した。しかし、このペスト騒動が一因となって、その後まもなく四日市港の港勢は、名古屋港に追い抜かれてしまった。

ペスト禍鎮静後にあたる大正11年の四日市港付近の地図である。当時はまだ二本の軽便鉄道(三重軌道と四日市鉄道)は、四日市駅が始発となっていて、四日市港と四日市駅中心の産業構造であった。情報も十分ではない時代、この中心地帯を襲ったぺスト禍の影響は大きなものがあったと想像できる。

海港検疫所は、旧港入り口の高砂町、浜松茂東に建つ。


大正ペスト騒動②

2021年08月01日 | レモン色の町

大正5年12月、必死の防疫が効を奏し、その月の感染者は6名にとどまった。終息を迎えた安堵の気持ちと再発防止を祈念して、12月27日、諏訪神社で終息報告会、諏訪公園では祝賀会を開いて大正6年の新年を迎えた。

海蔵村で、網を使っての捕鼠隊の活躍

ところが、1月に1名、4月に1名の患者が発生し、再度の恐怖が懸念された。そこで関係者と市民の徹底した防疫対策が実施され、ペスト禍は半年余りで完全に鎮静化した。発病者61名、内54名が死亡している。なんと9割近い死亡率だった。このほか下野村と海蔵村で各1名の死亡が出ている。患者の約半数の30名は、東洋紡の建つ浜町から、次に北条町の11名、北納屋町の5名、浜一色の3名、その他 中納屋・南納屋・八幡町から罹患者が出ている。

中央に架かるのは旧慈善橋。西に四日市病院、東 関西鉄道沿いに伝染病消毒所と細菌検査書が建つ。

続出するペスト患者の為、市では市立伝染病院を亜鉛版で囲い、手術室・細菌室を建設して患者を収容した。

二硫化炭素ガスによる燻蒸中の倉庫

また、健康者の隔離所として、尾上町の公有地に隔離棟二棟と炊事場を建設し、一時的に第6尋常小学校の健常者を移した。

隔離所へ運ぶ衣類、夜具、携帯品の消毒

ペスト菌の侵入経路は印度綿で、チューチコリ・ポンペイ・シンガポール・上海を経て四日市港に陸揚げされていた。疑わしい船は8月16日入港の呂宋(ルソン)丸であったが、調査結果は不明に終わった。 椙山 満

このペスト騒動が一因となって四日市港の港勢は、名古屋港に追い抜かれることとなる。  最終回に つづく