コロナ禍の中、秋の四日市祭りを“やる!”“やらない!”で、実行委員会は侃々諤々(かんかんがくがく)でゴザイマス。一方、このところ私、古代史に興味が出て、と言っても名前は難しいし、天皇家はくんずほぐれつですし、挑戦する読書はいつもとん挫状態ですが、関 裕二著の「古代謎解き紀行」を読んで、へーッと思いました。
南納屋の鯨船には“でんこんでーん”といって船首で子供が舞を披露します。今年は子供を乗せるのに「コロナで無理とちゃう?」ということなのですが、なぜ子供なのか?別におっさんでもエエと思いますが、(絵にならんか)。こうありました
この世での奇跡は必ず「境界」「接点」で起きている。だから「聖なる者」は境界に居ると信じられていた。例えば日本の国旗が日章旗で、日の丸が赤く塗られているのは、日中の太陽を描写したものではないからだ。太陽信仰において最も神聖視するのは、明け方の赤々と燃え上る日の出である。
古い神社に行くと必ず鶏が飼われているのは、鶏が日の出とともに鳴くからではない。鶏が鳴いて、太陽を呼び寄せるからである。だから神道の太陽信仰は、日の出を重視していることが分かる。これは、あちらの世界からこちらの世界に太陽が移り変わった瞬間が、最も輝いているからである。
一方人生における最大の奇跡は、生誕と死だ。ふたつの事象も、あちらとこちらの接点、境界で起きている。そうなってくると、境界に近い者ほど神聖な者、という考えが出てくる。事実、筍は土地を破って出てくる時、人智を超えた成長力をみせる。童子もこれと同じで、生と死に誓い童子は「神に近い人間」と考えられたのである。多くの祭りで、小さな子供が「稚児」として重要な役割を今でも演じているのは、これらの発想の名残りなのである。
鯨船
単に子供がかわいいから、という訳でもなさそうです。ちなみに、死に近い老人でもO.Kだそうです。しかし、ジジイが練りの上で怒りたっくていても、絵になりませんわなぁ。