図書館で借りてきた『四日市史研究 第4号』に“四日市の海水浴場”として椙山 満氏が投稿してみえた。
第1号は掖済会前海水浴場
昭和5年ビクターレコードに四日市小唄が録音されて全国に売り出された。西條八十作詞、中山晋平作曲、藤間静江の振り付けまであって、四日市のきれいどころがお座敷で舞い踊ったものであった。三番目の歌詞に「那古の渡りが霞に消えて、夏が来る来る伊勢の海」そのあとははやしが「ハリヤよってけよいよい四日市」と賑やかした。那古の渡りとは北勢の海の名物蜃気楼で、霞に消えては霞ケ浦に代表される伊勢四日市の夏の海を歌った西條八十の名セリフといえる。
明治44年
四日市の海水浴場は、三滝川口から朝明川口に至る美しい浜辺に連なっていた。砂白く松緑にして水浅く波静かで、夜明けに海から登る旭光が悠々静波に輝く様を眺めると、まさしく俗界を離れた天与の海岸であったといって過言ではなかった。
海水浴場として最初に開かれたのは三滝川口の南岸から旧四日市港の防波堤にかけての砂浜で、明治41年この浜に海員掖済会の建物が出来たことから、市民は掖済会前の海水浴場と呼んで親しんだ。大正6年5月、米国の飛行家アートスミスが、旧港とこの海岸を中心に曲芸飛行をやったり、のちに海軍の水上機が離水着水を演技したのもこの海水浴場の砂浜であった。海員掖済会の洋風建物の隣には、船大工の造船所、その南側には牧場の草原があって沢山の牛が放牧されていた。大正後期になるとここは旧港の防波堤で潮流が澱むためか、ヘドロが多くなって海水浴に適さなくなり、代わって三滝川口北岸から海蔵川口に至る午起海岸が大正12年に整備され、午起海水浴場として脚光を浴びることとなった。