世界史の林先生曰く、この銀杏の木の大きな傷跡は、商業学校を工場と間違えて爆撃したのではないか?ということであった。昭和20年空襲の夜、焼夷弾の雨が天聖院の屋根に降り注いだ。
天聖院の東に隣接して商業学校があった
明治17年、文部省より全国に学校設置を要望する「商業学校通則」が通達された。四日市では明治26年に設立された四日市商業会議所会頭の井島茂作ら10名(この時の副会頭は、伊藤傳七)が、全国で18番目、三重県で初の私立商業学校を発足させる。目的は“内外商業に関する必須の教育を施し他日商務を処理経営すべきものを養成する”とあり、生徒心得では“平素務めて真正商業家たるべき徳性風采を養成すべし”とあったが、開校式には、予科定員50人に対し36人、本科80人に対し23人という寂しさであった。
その後、県立となり特待生制度が導入されるなどして定員も240人となった。なんと当時の本科三年生の「商業実践」として、夏季休暇中に2~3人が組になり万古焼やタオル・小間物の行商に北海道から九州各地へと出かけて行った。こうした授業が後年、万古焼の西日本方面への販路拡大に繋がったのだろうか?
三重県立四日市商業学校(四日市市高浜町 昭和9年)
明治29年私立として設立。同30年市立商業学校となる。県下唯一の甲種商業学校として市外からの入学者が多かった。明治37年から県立となり、米人教師を迎え英語力養成に力を入れたことで有名だった。戦災で校舎が焼失し、現在は橋北中学校校地となっている。“目で見る 四日市の100年”より
橋北中学校(高浜町 昭和38年頃)
昭和22年、この前年に移転した四日市商業学校の跡地で開校。海蔵川上空から南向きに写されている。“四日市の100年 樹林舎刊(提供=加藤慈治氏)”
オマケ:末広橋の雲峰(うんぽう)出口對石画 四日市市立博物館“知られざる四日市の面影”より
大正8年に完成した東海電線(現在の住友電装)の工場です。煙突からモクモクと立ち上がる黒い煙を、夏の白い入道雲と対比するように描いています。川岸を石で固めた阿瀬知川の河口付近、そこに架かる末広橋の上では、帽子をかぶった子供たちが川面を眺めています。(2本の煙突には“東海電線株式会社”の文字が・・・)
大正11年