花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

エキサイト四日市・バザール開催の御礼

2021年05月16日 | 諏訪商店街振興組合のこと

去る4月4・5日にエキサイト四日市・バザール2021が行われました。何をいまさらとお思いでしょうが、5月14日に反省会を兼ねた実行委員会が開かれました。出席委員の皆さんからは、一部コロナ禍の心配も聞かれましたが、全体としては十分な対策のもと開催できてよかったというのが結論でした。イベントに関わったみなさん、お越しいただいたみなさんに、実行委員長に代わりまして 心より御礼申し上げます。

コロナ禍に見舞われて1年数か月が経ちます。街の魅力がどんどん忘れられています。これを取り戻すには、長い時間と努力が必要です。何もしないことは簡単なこと、出来る限り、工夫を凝らして街の魅力を配信し続けなければ、市民にとって街は不必要なものになってしまう、そんな気がします。

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三滝橋 今昔②

2021年05月15日 | レモン色の町

東海道分間延絵図の三滝橋の図です(江戸末期)。三滝川にかかった三滝橋は、浜一色村から四日市宿へ入る入口にあたりました。堤防に沿った坂になっていたと想像できます。坂を下りると四日市宿でした。

四日市宿は、東海道と浜往還が交差して成り立っていました。

明治44年の四日市宿。南町と竪町が交差したところが“札ノ辻”で、幕府のお知らせを掲げた高札が立っていました。辻の右下にあるのが陣屋跡です。

空襲後の空撮です。戦時中から国道1号線の拡幅工事が進められていました。四日市橋こそ出来ていませんが、東海道に並行して国道が造られつつある様子が見られます。

水谷百碩画による“三滝川夕涼”(四日市十二景より 四日市市立博物館)

百碩の題名一覧には「旧三滝川夕涼」とある。題名に旧と付くのは、明治以前のという意味のようです。三滝川にかかる東海道の橋が三滝橋です。長さ52間(95メートル)もありました。橋の上と河原には屋台が並び、人々が夕涼みを楽しんでいる様子が描かれています。髪型に注目すると、髪を結っているのがわかります。後に屋台に代わって牡蠣船が出されたのでしょう。憩いの場でした。

本町の水谷氏からお借りした雪の日の牡蠣船の立体写真です。目線を寄せて二枚の絵が重なるようにすると、立体的に見えます。

“知られざる四日市の面影”(四日市市立博物館)出口對石画 泗水十二景より“三滝の霽月(せいげつ)”

雨上がりの三滝川の風景を、西に傾く月と共に描いています。河原には屋形船のようなものが描かれていますが、これは料亭の牡蠣船と思われます。百碩の屋台を出した河原に、店を置いたものと思われます。木造橋の三滝橋としては最後の姿で、大正12年以前の風景を描いたと思われます。のどかな昔日がしのばれます。

 

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三滝橋 今昔①

2021年05月14日 | レモン色の町

本日、暑いくらいの良い天気だったので、おかあんに断って、三滝橋へ出かけた。

昭和43年のマップ

国道1号線にかかる橋を四日市橋、旧東海道沿いにかかる橋を三滝橋と呼び分けている。

現在

大正13年

木橋だった三滝橋が頑丈な鉄橋にかけ替えられた当時の様子で、北町側から川原町側を撮影している。橋の手前には木橋の名残の杭がある。

明治末期の三滝橋。三滝川の川下の通称「ざーざー」と呼ばれた堰(石組みの段)付近から北町の入り口を撮影している。

現在

戻って、三滝橋南詰から東を撮る。ここに以前 牡蠣船があった 停泊してある舩で料理がでた。とてつもなく風流デゴザイマス。

 

 

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昌栄橋は何時できた?

2021年05月12日 | レモン色の町

下総人さんの長年の疑問。昌栄橋は何時できたのか?

その前に、明治末期の東海道筋にかかっていた四日市橋(訂正:三滝橋の間違いでした 陳謝)。橋を渡ると川原町です。明治期に入ってからというものの浮世絵の橋とは大違い。立派なもんです!

さて昌栄橋ですが、明治44年には赤のマークで、予定になっています。

明治40年の“四日市史”の地図を見ると、阿瀬知川河口に砂浜が広がっていた様子が分かります。ジラシマス

ここの埋め立て予定地に、尾上町ができました。右下に建つ燈台が、十里の渡しの船着き場だった場所と想像できます。

明治40年、南起海岸(西末広町)の夕景 第1期埋め立て工事で消える直前の海岸線(目で見る四日市の100年より)砂浜があったのが分かります。

阿瀬知川の河口風景(末広町 明治末期)築港工事が進められている 向こうは南起海岸で、埋め立て1号地(末広町)となるところである。(目で見る四日市100年より)

そして大正11年の地図。尾上町から千歳町の埋め立てが終わっている。国産振興大博覧会に向け、準備は進む。

結論。昌栄橋ができたのは 明治44年から大正11年までの約10年間のどこかということになります。チョット ゆるかった でしょうか? ところで 灯台のに西に建つ 掖済会(えきさいかい)って何でしょうか? イカリのマークになっています

 

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広重“東海道53次”四日市宿

2021年05月10日 | レモン色の町

歌川広重は、実際に東海道を旅して浮世絵を描いたのではないらしい。43番目の宿場にあたる四日市は、追分で伊勢参宮との分かれ道になっていて、名が知られていた。隷書版の“参宮道日永村”の図

そして、行書版“参宮道追分”の図

さて、四日市宿(よっかいちしゅく、よっかいちじゅく)は、東海道53次の43番目の宿場である。現在は三重県四日市市。幕府直轄の天領であり、代官所が置かれていた。宮宿との間に「十里の渡し」があった。宿内人別:7114人(男3522人、女3592人) 宿内総家数:1811軒(本陣2、脇本陣1、旅籠98)。ウィキべディアより

東海道分間延絵図より四日市宿

さてここで保永堂版広重の四日市宿の絵ですが、

この川は三滝川か?ということで 確かに三重川(三滝川)と解説があります。

三滝川とは・・・花崗岩帯である御在所岳(三重県菰野町湯の山)に源を発し、四日市市を潤し伊勢湾へ注ぐ。源流付近の三つの滝、蒼滝、潜戸の滝、百間滝が名前の由来とされる。古くは、三重川として知られ、広重の東海道五十三次の四日市宿にも描かれている。四日市市末永町には、北東方向に分派する放水路(三滝新川)があり海蔵川に至る。ウィキペディアより

もう一度四日市宿の延絵図を見てほしい。浜の様子までよく分かります。

左側 浜の先端に 熱田宿へ渡海 旅人乗船場 海上十里 とあり十里の渡しがありました。右に二ツ橋があります。

これは、江戸末期の図。阿瀬知川河口がうねって浜を作っているのが見て取れます。三滝川はこの絵の右外に流れています。東海道の解説本に三滝川にかかる四日市橋のことが描かれていました。

浜一色村に属する川原町を北川原町(四日市橋の北側)、四日市宿に属する川原町(橋の南側)を南川原町と呼び分けていたとも伝わるが、この川原町あたりから四日市宿としての景観がうかがえる。ただし、三滝川の土手が高いので、いったんこの堤防の坂道を上がり、三滝橋(四日市橋)を渡ってもう一度土手を下る。三滝川の両岸には川水取水用の「指圦(ゆびいり、と読むのか?)」すなわち水門が東側と西側に一か所ずつあった。西側の「指圦」を超えると、いわゆる四日市宿となり、街道はほぼ南の包囲で宿内に入っていく。浮世絵からは、坂道らしき様子はありません。次の絵は江戸末期の耕地図です。

三滝川が埋立地(?)のすぐ横を流れています。次の図は、享保時代(1716~35)の四日市宿の図です

阿瀬知川も流れ込んでいたけれど、四日市湊は三滝川の川下だったんじゃないか?と思うのです。つまりこの絵は、現在の開栄橋あたりの、十里の渡しが遠くに見える風景ではなかったのか?と・・・

浜の様子がよく分かる動画を作られた方がみえました。失礼します

広重(hiroshige) 東海道五十三次 四日市(yokkaichi) - Bing video

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旧四日市港あたり

2021年05月09日 | レモン色の町

東海道分権延べ絵図(訂正:東海道分間延絵図)より 阿瀬知川と十里の渡しの位置に自信がござんせん!

左上に燈台が描かれています。十里の渡しがあった場所でしょうか?

東海道五十三次にある橋は 昌栄橋(訂正:開栄橋)か?左に見えるのは十里の渡しか?謎が謎をを呼びます。しかしここにははっきりと三重川(三滝川)と書かれています?

四日市港ができる以前(明治6年前)の風景が水谷百碩画“四日市十二景”にあった。四日市市立博物館刊「知られざる四日市の面影」より

右の橋は開永橋(よう間違う:開栄橋)か?

“旧四日市浜之景”明治初年頃の四日市湊を描いています。手前の松林の中には瓦葺の高い建物が描かれています。これは灯明台(灯台)で、天保時代に建てられました。その左に宮(熱田)との十里の渡し場があり、旅人はここで船に乗り降りしました。この場所が後に四日市港(稲葉町・高砂町)になります。同じ構図の絵が、稲葉三右衛門の子孫の稲葉家にも残されています。

この燈台が、工事途中の写真にも載っています(写真左上)。

“昌栄新田潮干狩り”昌栄新田は現在の尾上町から末広町にかけての地域です。画面左手には高砂町から伸びる四日市港の防波堤が描かれています。右手には“浜野景”にも描かれている松原があり、おだやかな陽気の中で、人々が潮干狩りに興じている様子が描かれています。

港から南を見た絵です。のどかな風景が広がります。

明治44年の旧港 十里の渡し(燈台)のあった場所が 想像できます(その場に居なかったので確かではありませんが…)

 

 

 

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昌栄町あたりを行く

2021年05月07日 | レモン色の町

昭和3年 昌栄橋北詰めに 稲葉三右衛門氏の銅像が建つも 供出で撤去された 

背景から察すると 西側に南向き(スミマセン訂正 東向きでした)に建てられた?

運河のある背景から ここに間違いない

昌栄橋の周辺を撮る

北を望むと 尾上町から高砂町、稲場町方面に道がのびる 先の信号を右折すると 千歳橋を渡って昭和11年開催の国産振興大博覧会会場になる

南 昌栄橋を見ると 四日市港の第2埋立地(末広町へつながる第1埋立地になりますか…)へとつながる

運河は西 阿瀬知川河口につながる 三重鉄道の終点があった場所だ 阿瀬知川橋梁のこと

2020年5月16日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

運河は昌栄橋地点で埋め立てられ終わっている

ここから北へ 相生橋西詰の南納屋を覗く ここまでの運河は埋め立てられ防災地域となって公園化している

納屋運河の由来

天然の良港であった四日市港は、明治初年に先覚者稲葉三右衛門翁の手により修築され 近代港湾への基礎が築かれた。その後、港勢の伸展に伴い 旧港だけでは船舶の入港に応じきれないため 新港の開さく計画に基づき再度工事が起工され、昭和11年念願の新港が完成した。

 この輝かしい歴史の中から納屋運河が誕生し、運河は昌栄町から北納屋町に通じ作業船や小型漁船の停泊地として、また釣り人の姿など見られ、岸辺の人々の憩いの場でもあった。然し、昭和27年頃より臨海工業地帯の急激な発展により転換期を迎え、運河の使命も終焉を余儀なくされた。

 市では地区住民の要望に応じ、國の石油貯蔵施設立地対策等交付金を受け昭和55年度から2か年で整備し、納屋防災緑地として新しい使命が与えられた。

                          昭和57年3月吉日建立 四日市市

運河跡の記念碑から南を見ると 公園が広がる

この先に昌栄橋がある

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丹羽文雄氏と鵜の森公園

2021年05月05日 | レモン色の町

連休の最後は雨になった。この辺りは連休中に田植えを終える。昭和期、小学校で習った田植えは6月。雨の中、田植えする絵が教科書にあった。それまでは菜種油を取る。4月は一面菜の花で真っ黄色、その中を遠足の行列が続く。辺り一面が菜の花の匂いでむせ返るようだった。

昭和7年4月10日夜10時頃。丹羽文雄は、荷物を引っ提げて寺を出た。夜の田圃道を四日市駅へ急ぐ。しかし辺りは一面菜の花で薄明るい。そんな様子が目に浮かぶ。

2021年2月13日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

鵜の森公園西に、丹羽文雄氏の碑が建つ。

“古里は 菜の花 もあり 父の顔”

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稲葉三右衛門と四日市港②

2021年05月04日 | レモン色の町

四日市の生命は港にあり。而して四日市の港を、今日のごとくに改築したるものは実に、稲葉三右衛門氏となす。(明治40年発行“四日市志”より)

本町の水谷宣夫氏からお借りした“四日市志”は、明治40年2月、小学校の委嘱を受けて山崎清治、星野吉五郎、佐藤一海氏ら3名で編纂された貴重な書籍である。

稲葉三右衛門は、1837年生まれで回船問屋の養子となる。25歳の時、徳川家御本丸御普請御用途へ、29歳の時に徳川家御進発御用途へ上納金を納めたので“稲葉”の名字を末代まで名のることが許された。

四日市港の着工が35歳の時(明治6年)、男盛りであるが若い。15年の年月を経て50歳の時(明治17年)港を完成させた。途中、財産尽き果て工事は中断、かわって県が事業に乗り出すも、裁判を起こし、東京の内務省に願い出て我が事業としての執念を燃やした。港構築の功により明治21年藍綬褒章を受けている。

それ以外にも、氏は、明治10年私費を以て橋梁を架設し、その功に依りて銀杯を下賜せられ、明治17年皇城延焼の際、献金せしに依り木杯を下賜せられたることあり。実に氏の如きは、その一生を公共事業に徹したるものというべし。

昭和3年翁の銅像が建てられた

昭和3年昌栄橋北詰めに稲葉翁の銅像が建立されたが、単に港の入り口にあたるのでここだったのか?明治10年翁が造った橋梁が昌栄橋だったのか?分からない。

昭和32年頃の旧四日市港

やがて戦争による供出で像は撤去されたが、昭和31年、中央通りの国鉄四日市駅前に再建されることとなった。除幕式には、翁の祖孫(訂正:曾孫)で小学5年生の稲葉靖子さんが列席されている。明治40年頃、回船会社を営んでいた 稲葉甲太郎さんのお孫さんになるのでしょうか?

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稲葉三右衛門と四日市港

2021年05月03日 | レモン色の町

四日市港は江戸時代、天然の良港として熱田からの十里の渡し場があり、伊勢湾各地へ行きかう小舟や和船で賑わっていた。明治6年、黒川彦右衛門ら3名は、東京の日本郵船会社に出資を申し出て、東京と四日市間に汽船を運行させる。こうして港四日市は全国にその名を馳せるようになった。

ところが、安政の大地震で昌栄新田の堤防が決壊、阿瀬知川からの流砂が港湾内へ流れ出て、干潮時には小船の出入りすら難しくなった(大井の川と三滝川の影響もあったか?)。

ここで、明治5年、回漕問屋を営んでいた稲葉三右衛門は、同業者であり友人の田中武右衛門と共に県へ港の改築工事を願い出る。

翌年、県の認可が下りると、工事は土砂の自己所有地への運搬から始まった。

明治7年頃の埋め立て工事の様子

しかし、1万4千余坪の埋め立てと220メートルに及ぶ波止場の修築は困難を極め、田中武右衛門は資金難を理由に手を引いてしまう。にもかかわらず、三右衛門は、将来の四日市の繁栄と工事にあたる窮民救済を信念に、土木請負師である長谷川某を督励して一人で改築事業を進めた。

青い部分が工事個所

親戚からも反対を受ける。彼の顔は潮風にやけ、目は鋭く落ち窪み、必死の形相が窺われた。世間からは、名誉のため、金儲けのためといった誹謗中傷を受ける。ようやく1年間かけて波止場と運河掘り割りが完成したが、この時すでに資金は底をついていて、工事は中断せざるを得なくなった。

稲葉三右衛門翁

2年後、埋立地に稲場町、高砂町が生まれ、汽船会社の支店や人家が並び始め港の重要性が見直されてきた為、県が事業継承に名乗り出た。しかし、三右衛門はこれを断り独力での事業を願い出る。彼は岐阜の実兄 吉田耕平を保証人に工事を再開しようとしたが、退けられ県の事業として進められることとなった。

この間も、窮乏生活の中で訴え続け、明治9年大阪城等(訂正:上等)裁判所に上訴した。結果は敗訴に終わっている。それでも彼の意志はくじけず、単身上京して内務大臣への直談判に及ぶ。内務省も彼の熱意と信念に打たれ、完成後の波止場を公有にすることを条件に許可が出た。時に明治14年3月。県は手を引き、再起工となった。

その後も資金調達に苦心したが、明治17年5月、港は完成した。投じた資金は20万円。彼の私財をことごとく使い果たしての事業だったが、完成した四日市港は、後の四日市発展に大きな財産を残すこととなった。

明治16年の四日市港

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