花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

ここに弥生館があった

2012年10月22日 | レモン色の町
大正10年、南町に実演の「弥生座」が開館。空襲では全焼したが昭和20年「弥生館」として再建。昭和31年3月には、新東宝上映の小劇場「ぼたん劇場」が併設された。
東宝映画・新東宝映画の封切館として、自分にとってもなじみが深い。
「弥生館」では“世界大戦争”“地球防衛軍”“ゴジラ”“ラドン”“モスラ”など一連の円谷英二監督による特撮物は子供から大人まで人気があった。
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“用心棒”などの黒沢明監督作品も上映された。観終わった帰り道、無口な親父と「面白かったなぁ」と話しながら帰ったものだ。
鑑賞に出かけるのは、ほとんどが土曜日の夜。寒い夜などは。灰が入っている金属製の箱に炭をおこして入れ、その箱に足を乗せて暖をとりながら観た。
幼児は無料だったが、小学生ともなるとビラ下券1枚が要る。お袋に負ぶされ、ねんねこ袢纏で包んで入口を通過したり、背を低くして突破を試みていたが、最後には「小学生はお金が要りますょ」と注意されるにいたった。
新東宝は、嵐勘十郎の“鞍馬天狗”や、宇津井健の“スーパージャイアンツ”が懐かしい。やがて大蔵映画となり、怪談物やいかがわしい二流映画を上映するようになった。中川信夫監督による“地獄”を姉と観に行ったときは、その恐ろしさに震え上がった。
そういえば、中学のころ、同級生のFくんが親父のコートと帽子をかぶって成人向映画を観たと自慢していたのを記憶している。
成人向映画が三重県で発令されたのは昭和38年のこと。映画“日本残酷物語”は児童の健全育成に問題があるという見地から指定、県内の興業組合に連絡された。その中に「サリドマイド禍の部分はカットすること」の一文が入っていたことは興味深い。
「弥生館」は建物の改築を迫られ昭和51年8月21日、1カ所の映写室から三館のスクリーンに映写する県下初の集中映写方式を取り入れた。シネコンの先駆けである。
「弥生館」では山口百恵の“風立ちぬ”「四日市スカラ座」では三船敏郎の“ミッドウェイ”「ぼたん劇場」では特選各社映画を上映した。その後「ぼたん劇場」は「弥生館・2」と名を変える。
     
喫茶店「オスカー」を1階に開き、駐車場経営に乗り出した経営者 玉置さんの努力が偲ばれます。
1号線沿いにそびえる建物は、その後ゲーム喫茶となった。閉館の時がいつなのか記憶にない。
コメント (2)
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