昭和20年6月18日。四日市市街地は大空襲を受けた。
焼失した映画館は、中町の“世界館”南町の“弥生館”幸町の“四日市映画劇場(前帝国座)”新町の“四日市東宝劇場”であった。富田以外の映画館は全滅状態である。
戦後、トップを切って塩浜にあった海軍燃料廠の旧軍人グループが、有限会社「三重劇場」を南町(西新地?)に立ち上げた。昭和21年2月18日のことである。
このエネルギーには驚かされる。従来は興行師による運営が劇場のはずであった。この素人集団は、その後も納屋町の“ロマン座”、新田町の“四日市宝塚劇場”、そして津市の“津パール劇場”と映画館経営を広げていった。投資金は大きかったが、映画館はもうかる商売だったのだろう。
※昭和30年ころの地図より 上から「弥生館」「三重劇場」「東宝劇場」「ラジオ劇場」「諏訪劇場」「四日市劇場」
当店の塀には四日市東宝劇場以外の映画館の看板がずらりと並んでいた。
看板代として、招待券(当時はビラ下券と呼ばれていた)2枚と割引券数枚が毎月もらえる。土曜日の夜は両親のどちらかに連れられて映画館へ出かけた。
三重劇場は、スクリーン両脇の壁に十字型のネオンがついていた。
洋画専門館だったから、おふくろが「洋画はすぐ終わるから」といつも言われていた。字幕が読めないので退屈していたのだろう。ロバート・ワイズミューラーの“ターザン”はいつもハラハラさせられた。
アラン・ラッドの“シェーン”を観に行こうと八百屋のしろうちゃんに誘われた。期待して待っていたがお誘いはなかった。どうやらお姉ちゃんの都合がつかなかったらしい。そんなことはよく覚えている。
グレゴリー・ペックの“日曜日は鼠を殺せ”を親父と観て「ええ、映画やったなぁ」と感心し合ったこともあった。
髑髏から蛇が出る3D映画を観たいと両親にねだった記憶がある。たぶん招待券がなかったのだろう。赤と青のセロハンで出来た紙製メガネで観た。
高校のころ三重劇場でデートをした。観た映画はカトリーヌ・ドヌーヴの“シェルブールの雨傘”。映画はどうでもよかった。
“2001年宇宙の旅”や“E・T”など三重劇場には思い出が多い。良い映画を上映していただいたものだ。
閉館は、昭和62年6月7日である。
焼失した映画館は、中町の“世界館”南町の“弥生館”幸町の“四日市映画劇場(前帝国座)”新町の“四日市東宝劇場”であった。富田以外の映画館は全滅状態である。
戦後、トップを切って塩浜にあった海軍燃料廠の旧軍人グループが、有限会社「三重劇場」を南町(西新地?)に立ち上げた。昭和21年2月18日のことである。
このエネルギーには驚かされる。従来は興行師による運営が劇場のはずであった。この素人集団は、その後も納屋町の“ロマン座”、新田町の“四日市宝塚劇場”、そして津市の“津パール劇場”と映画館経営を広げていった。投資金は大きかったが、映画館はもうかる商売だったのだろう。
※昭和30年ころの地図より 上から「弥生館」「三重劇場」「東宝劇場」「ラジオ劇場」「諏訪劇場」「四日市劇場」
当店の塀には四日市東宝劇場以外の映画館の看板がずらりと並んでいた。
看板代として、招待券(当時はビラ下券と呼ばれていた)2枚と割引券数枚が毎月もらえる。土曜日の夜は両親のどちらかに連れられて映画館へ出かけた。
三重劇場は、スクリーン両脇の壁に十字型のネオンがついていた。
洋画専門館だったから、おふくろが「洋画はすぐ終わるから」といつも言われていた。字幕が読めないので退屈していたのだろう。ロバート・ワイズミューラーの“ターザン”はいつもハラハラさせられた。
アラン・ラッドの“シェーン”を観に行こうと八百屋のしろうちゃんに誘われた。期待して待っていたがお誘いはなかった。どうやらお姉ちゃんの都合がつかなかったらしい。そんなことはよく覚えている。
グレゴリー・ペックの“日曜日は鼠を殺せ”を親父と観て「ええ、映画やったなぁ」と感心し合ったこともあった。
髑髏から蛇が出る3D映画を観たいと両親にねだった記憶がある。たぶん招待券がなかったのだろう。赤と青のセロハンで出来た紙製メガネで観た。
高校のころ三重劇場でデートをした。観た映画はカトリーヌ・ドヌーヴの“シェルブールの雨傘”。映画はどうでもよかった。
“2001年宇宙の旅”や“E・T”など三重劇場には思い出が多い。良い映画を上映していただいたものだ。
閉館は、昭和62年6月7日である。
昭和22年、終戦の年より2年後、新田町に800人収容の「ラジオ劇場」ができた。当時は実演劇場だったが、昭和31年「四日市日活劇場」となり、日活映画専門の上映館として営業が続けられた。
呉服町から南への路地を入ると映画館があった。左に自転車置き場があり半分畳敷きになっていた。
私が幼少の頃、ここへお客さんに連れていかれてお饅頭をごちそうになった記憶がある。当時は人の出入りが絶えずあって、劇場経営の繁栄振りが思い起こされる。
やがて映画産業も下降線をたどり、日活は1971年(昭和46年)11月ロマンポルノ路線を打ち出す。
その第1作が「団地妻 昼下りの情事」(白川和子主演)と「色暦大奥秘話」(小川節子主演)だった。
その後、昭和56年11月、諏訪栄の大鯛ビル4Fに移転。昭和63年7月「ロッポニカ・四日市」に改称された。
当時、記念として女優の風祭ゆきが舞台挨y拶に来ていたのを観に出かけた記憶がある。
繁華な場所にあるので入るのも恥ずかしい。緊張してエレベーターを待つ。4階入り口は狭く、切符を出そうとするとそこに友人のY君がいたので、ほっとした気持ち半分で驚いたことがある。館主とは知り合いで遊びに来ていたらしい。ワルイコト?は出来ない。
昭和30年代、「四日市日活劇場」の西側に松竹直営の「四日市松竹劇場」が建ち、呉服町そして日活・松竹と並んでこの界隈は賑わった。
昭和41年、三重劇場のスタッフによる経営に代わり洋画専門の「四日市宝塚劇場」に改名、「奇跡の人」(パティ・デューク)など名作が上映され洋画ファンに親しまれた。
やがて洋画ポルノの上映専門館となった。小生も好んで?通ったが、つらいポルノ映画の間に「スーパーマン」の予告編を観て、救われた気分になった覚えがある。鑑賞の結果は100%落胆だった。
昭和61年8月31日。往年の名画「ローマの休日」(オードリー・ヘプパーン)と「陽のあたる場所」(モンゴメリー・クリフト エリザベス・テイラー)の上映で別れを告げた。
呉服町から南への路地を入ると映画館があった。左に自転車置き場があり半分畳敷きになっていた。
私が幼少の頃、ここへお客さんに連れていかれてお饅頭をごちそうになった記憶がある。当時は人の出入りが絶えずあって、劇場経営の繁栄振りが思い起こされる。
やがて映画産業も下降線をたどり、日活は1971年(昭和46年)11月ロマンポルノ路線を打ち出す。
その第1作が「団地妻 昼下りの情事」(白川和子主演)と「色暦大奥秘話」(小川節子主演)だった。
その後、昭和56年11月、諏訪栄の大鯛ビル4Fに移転。昭和63年7月「ロッポニカ・四日市」に改称された。
当時、記念として女優の風祭ゆきが舞台挨y拶に来ていたのを観に出かけた記憶がある。
繁華な場所にあるので入るのも恥ずかしい。緊張してエレベーターを待つ。4階入り口は狭く、切符を出そうとするとそこに友人のY君がいたので、ほっとした気持ち半分で驚いたことがある。館主とは知り合いで遊びに来ていたらしい。ワルイコト?は出来ない。
昭和30年代、「四日市日活劇場」の西側に松竹直営の「四日市松竹劇場」が建ち、呉服町そして日活・松竹と並んでこの界隈は賑わった。
昭和41年、三重劇場のスタッフによる経営に代わり洋画専門の「四日市宝塚劇場」に改名、「奇跡の人」(パティ・デューク)など名作が上映され洋画ファンに親しまれた。
やがて洋画ポルノの上映専門館となった。小生も好んで?通ったが、つらいポルノ映画の間に「スーパーマン」の予告編を観て、救われた気分になった覚えがある。鑑賞の結果は100%落胆だった。
昭和61年8月31日。往年の名画「ローマの休日」(オードリー・ヘプパーン)と「陽のあたる場所」(モンゴメリー・クリフト エリザベス・テイラー)の上映で別れを告げた。
秋晴れのさわやかな1日
四日市祭りが開催されました
私めは、四日市商店連合会の甕破り山車に参加
お祭りの1日を楽しませていただきました
大家実行委員長より朝の訓示
本町での演技
諏訪新道での浜田の獅子舞
1番街での演技
公園通りにて
諏訪神社の練り込み
グリーンモールの賑わい
樋口会長より感謝の言葉
皆さんそれぞれの立場で、お祭りを盛り上げていただいていました。
街はひとつです。
四日市祭りが開催されました
私めは、四日市商店連合会の甕破り山車に参加
お祭りの1日を楽しませていただきました
大家実行委員長より朝の訓示
本町での演技
諏訪新道での浜田の獅子舞
1番街での演技
公園通りにて
諏訪神社の練り込み
グリーンモールの賑わい
樋口会長より感謝の言葉
皆さんそれぞれの立場で、お祭りを盛り上げていただいていました。
街はひとつです。
中村さんと林さんの話は以前書いた。
四日市市内の映画館の興亡を調べて見えるということだった。
稚拙なこのブログでも、三重劇場・弥生館・ロマン座・諏訪劇場、そしてグランド・シネマ等の紹介が残っている。
そんな中、今日の中日新聞に、三重映画フェスティバルの記事が載っていた。
三重映画フェスティバルは、この月の20日に開催される。
四日市市内の映画館の興亡を調べて見えるということだった。
稚拙なこのブログでも、三重劇場・弥生館・ロマン座・諏訪劇場、そしてグランド・シネマ等の紹介が残っている。
そんな中、今日の中日新聞に、三重映画フェスティバルの記事が載っていた。
三重映画フェスティバルは、この月の20日に開催される。
市川 崑監督作品“おとうと”の感想が届いています。Tさん、力作をいつもありがとうございます。
9月28日の第3回は(文豪 幸田露伴の愛娘)幸田 文原作・水木洋子脚本・市川 崑監督による「おとうと」
時代は「大正」ですが、変わらぬテーマ「家族の絆」を扱っていますね。
ナイーヴな心を持ちながら、放蕩の限りを尽くし、17歳で見舞われた不治の病をきっかけに、信仰も必要としない澄んだ心を取り戻す息子。
家族を養う(療養費も)為、意に沿わぬ仕事も引き受け、最後まで息子を溺愛する父親。
生かさぬ仲の子供たちを愛しきれずにいたが、瀕死の息子の無垢な心に触れ、心の底から愛しいと涙を流す継母。
病弱な継母に代わって家事一切をテキパキとこなし、時には姉弟の情を超えて(?)息子を慈しむ様に弟の世話を焼いてきた娘。
臨終の息子に覆いかぶさって泣き崩れる両親の姿に、それまでの緊張の糸が切れ気絶した“げん”が、再び目覚めたとき、老いてゆく両親はこれから私がしっかり守っていくのだと決意する幕切れ・・・・見事でした。
心に残ったシーンは・・・・・
後の碧郎の喀血を連想させるような畳にこぼれた真紅のインク。
「ふわっとした悲しみのほうが、ひどい悲しみより辛い」と言う碧郎のセリフ。
死にゆく弟に見せるため、島田に結い上げた艶やかな髪を恥ずかしそうに隠す“げん”。
俳優については・・・・・
24歳頃、渡仏結婚後、一時帰国して出演した岸 恵子。今なお女優・作家として活躍し続けるパワーは凄い。
若者の苦悩を見事に演じ。ビリヤード・モーターボート・乗馬もさらりとこなしていた川口 浩。
ユーモラスなシーンも生真面目に演じていたのがおかしかった森 雅之。
継母で病身という不安定な立場の初老の女の悲しみを全身で演じきった田中絹代。
落ち着いた物腰と言葉遣いで中年婦人を演じていた、まだ20代の岸田今日子。
ねちっこいストーカー男をいやらしく演じた仲谷 昇(のちに岸田今日子と結婚)等々。
ありがとうございました。
9月28日の第3回は(文豪 幸田露伴の愛娘)幸田 文原作・水木洋子脚本・市川 崑監督による「おとうと」
時代は「大正」ですが、変わらぬテーマ「家族の絆」を扱っていますね。
ナイーヴな心を持ちながら、放蕩の限りを尽くし、17歳で見舞われた不治の病をきっかけに、信仰も必要としない澄んだ心を取り戻す息子。
家族を養う(療養費も)為、意に沿わぬ仕事も引き受け、最後まで息子を溺愛する父親。
生かさぬ仲の子供たちを愛しきれずにいたが、瀕死の息子の無垢な心に触れ、心の底から愛しいと涙を流す継母。
病弱な継母に代わって家事一切をテキパキとこなし、時には姉弟の情を超えて(?)息子を慈しむ様に弟の世話を焼いてきた娘。
臨終の息子に覆いかぶさって泣き崩れる両親の姿に、それまでの緊張の糸が切れ気絶した“げん”が、再び目覚めたとき、老いてゆく両親はこれから私がしっかり守っていくのだと決意する幕切れ・・・・見事でした。
心に残ったシーンは・・・・・
後の碧郎の喀血を連想させるような畳にこぼれた真紅のインク。
「ふわっとした悲しみのほうが、ひどい悲しみより辛い」と言う碧郎のセリフ。
死にゆく弟に見せるため、島田に結い上げた艶やかな髪を恥ずかしそうに隠す“げん”。
俳優については・・・・・
24歳頃、渡仏結婚後、一時帰国して出演した岸 恵子。今なお女優・作家として活躍し続けるパワーは凄い。
若者の苦悩を見事に演じ。ビリヤード・モーターボート・乗馬もさらりとこなしていた川口 浩。
ユーモラスなシーンも生真面目に演じていたのがおかしかった森 雅之。
継母で病身という不安定な立場の初老の女の悲しみを全身で演じきった田中絹代。
落ち着いた物腰と言葉遣いで中年婦人を演じていた、まだ20代の岸田今日子。
ねちっこいストーカー男をいやらしく演じた仲谷 昇(のちに岸田今日子と結婚)等々。
ありがとうございました。
10月1日は朔日恵比須。
台風の影響で野菜100円市はお休み。
おたのしみ抽選会のみとなりました。
先日の会合で、“朔日餅”をやりたいという要望があり
中町の大福餅さんにお願いして“おはぎ”粒あんこしあん2個セットを200円で売りました。
“朔日餅”のラベルを付けましたが、二番煎じか?
開運を売りにするか?種類を変えていくか?
じっくり考えてまいります。
今回は25セットのみ。1時間半ほどで完売となりました。
台風の影響で野菜100円市はお休み。
おたのしみ抽選会のみとなりました。
先日の会合で、“朔日餅”をやりたいという要望があり
中町の大福餅さんにお願いして“おはぎ”粒あんこしあん2個セットを200円で売りました。
“朔日餅”のラベルを付けましたが、二番煎じか?
開運を売りにするか?種類を変えていくか?
じっくり考えてまいります。
今回は25セットのみ。1時間半ほどで完売となりました。
先日“商工春秋”10月号が届きました。
今月は水谷百碩画伯(1868~1928)の“旧四日市浜之景”です。
明治初年頃の四日市湊を描いています。手前の松林の中には瓦葺の高い建物が描かれています。
これは灯明台(灯台)で、天保時代に建てられました。その左に宮(熱田)と十里の渡し場があり、旅人はここで船に乗り降りしました。
この場所が、のちに四日市港(稲葉町・高砂町)になります。
同じ構図の絵が、稲葉三右衛門の子孫の稲葉家にも残されています。
とすると、灯台の向こうに見える川は阿瀬知川でしょうか?のどかな風景が広がっています。
明治四十四年の地図には、既に稲葉町・高砂町・尾上町が埋め立てられていて、その下(東)に四日市港が築かれています。
国鉄四日市駅から港に至る地域は、道路が細かく入り組んでいて 蔵町・中納屋・南納屋あたりの繁栄ぶりが偲ばれます。
今月は水谷百碩画伯(1868~1928)の“旧四日市浜之景”です。
明治初年頃の四日市湊を描いています。手前の松林の中には瓦葺の高い建物が描かれています。
これは灯明台(灯台)で、天保時代に建てられました。その左に宮(熱田)と十里の渡し場があり、旅人はここで船に乗り降りしました。
この場所が、のちに四日市港(稲葉町・高砂町)になります。
同じ構図の絵が、稲葉三右衛門の子孫の稲葉家にも残されています。
とすると、灯台の向こうに見える川は阿瀬知川でしょうか?のどかな風景が広がっています。
明治四十四年の地図には、既に稲葉町・高砂町・尾上町が埋め立てられていて、その下(東)に四日市港が築かれています。
国鉄四日市駅から港に至る地域は、道路が細かく入り組んでいて 蔵町・中納屋・南納屋あたりの繁栄ぶりが偲ばれます。