明治21年に四日市25か町 戸長役場を上神町に新築(後の四日市町役場)している。市政施行の準備に入った。
明治44年のマップを見ると、高等女学校と第五小学校(現在の中部東小学校後 中央小学校)に西側に建てられている。
明治30年8月1日 全国で45番目に四日市市政施行
大正11年の地図。市役所の位置は変わらない。
昭和13年のマップからは、市役所が現在の位置に移転新築されているのが分かる。
昭和6年 企業、篤志家及び市民の寄付金で、新市役所は竣工した。この時はまだ中央通りはなかった。
昭和21年、空襲後の空撮を見ても市役所は残っている。爆撃は逃れたが、修理程度で済んだのか?下の東西に走る道路が、中央通りの南側になる。
会議場
市長室
当時の市会議員はいまの国会議員よりも偉かったのかな?🙄🙄🙄
①については滑走路の東端に四日市駅があるのも変ですし、②については有りもしない道路が火災の延焼防止に役立ったなどありえないこと。
終戦の7年後には博覧会が開かれた場所。
あの道路の計画がいつ頃作られたのか、その背景も含めて知りたくなりました。
三右衛門さん以来の偉業では?
タケオさま〜〜。またまた、よろしく〜〜。🙏🙏🙏
昭和21年段階ではその気配は有りませんが 戦時中に計画があったのか どうか? 空襲後 焼け跡のガラを中央通りに捨てたと聞きましたが 当時 中央道路はありません
交差する三滝通りは 大阪の御堂筋並みに 広い道路を造りたかったという事は聞きました
1号線は 三滝川から諏訪神社前まで拡幅工事が終わっています 防災の為でしょう
都市計画の御仁に聞いてみましょうか 戦後復興の都市計画 はてさてその内容や如何に
もう一つ。何も四日市のど真ん中に滑走路を作らずとも、すぐお隣に鈴鹿の海軍航空隊があるではありませんか。
町の中に滑走路なんて 無謀ですよね
滑走路にしては短くないでしょうか?
約1キロ弱です
滑走路。やはり誰かの憶測に始まる噂だったようですね。
しかし、新しい街のシンボルとして70m道路。
このアイデアを出したのはどなただっのでしょうね。
中央通りにその方の銅像を建てたりして、、、😄😄😄