鉄道ファンの皆さんは先刻ご承知かもしれないが、JRグループ10月1日ダイヤ改正によって、またも九州寝台特急がひとつ廃止となった。京都~南宮崎間を走る「彗星」である。いつもであればこの後、すぐに最終乗車記に入るところだが今日は少し趣向を変え、私と「彗星」との関わりから書き始めることにしたい。
彗星との出会いは物心つく頃に始まる。私の生まれ育った家のすぐ前が国鉄日豊本線だったことはすでに何度かこのコラムで記したが、彗星は家の前を深夜、そして早朝に通っていた。その当時(1970年前後)の彗星に使われていた車両は、マニア的に言えば20系と呼ばれるものだ。1958年に「あさかぜ」として登場した当時は固定編成方式、全車冷房化、デラックスな接客設備などが話題となり「走るホテル」ともてはやされたが、駅での扉の開閉は手動式という今からすれば信じられない時代物でもある。3段式寝台のため頭が中段寝台に当たってしまい、昼間は寝台に腰掛けることもできなかった。年輩の人の中には、朝、自宅のベッドのつもりでガバッと上半身を起こしたら、中段寝台に勢いよく頭をぶつけてしまい、一気に眠気も覚めてしまったという体験を持っている人も多いだろう。しかし、幼い頃の私はそんな20系の歴史など知らなかったから、3段式の寝台を設けるため、建築限界ギリギリまで張り出した丸い屋根を見ながら、いつかあの寝台で眠ってみたいと思っていた。
当時のダイヤで、関西へ向かう上りの彗星が私の家の前を通るのが夜の11時頃、南九州に向かう下り彗星は朝の5時頃だったから、とりわけ夜が明けるのが早い夏の季節、両親に見つからないようにこっそり目覚まし時計をセットし、東の空が白みかけた朝5時頃、家の前を通る下り彗星を見るのが幼い日の私の楽しみだった。上りの彗星は家の中から通過音だけを聞き、大阪とはどんな所なのだろうと想像していた。そういうわけで、彗星は幼い頃の私を鉄道ファンへといざなってくれた偉大な親であり、廃止の報に接したとき、これはなんとしてでも行かねばと思った。とはいえ、今年春に寝台特急「さくら」が廃止になるときに、寝台券が取れずに乗れなかった苦い経験があったから、今回は通勤途上にある某駅で早めに寝台券を確保し、万全の体制でのぞむことにした。
9月24日。夕方の新幹線で名古屋から京都へ向かう。京都につくともう彗星は入線していた。14系と呼ばれる寝台特急、いわゆるブルートレイン用の客車13両編成を、EF66型と呼ばれる直流電気機関車が牽引する。彗星は、京都から九州の門司までは、別の寝台特急である「あかつき」(長崎行き)と併結される。2つの愛称を持つ別々の列車が一部の区間で併結して運転される「2階建て」列車である。向かって九州寄りの1号車から6号車までの6両が「彗星」、東京寄りの7号車から14号車まで7両(この日は非連結の8号車を除く)が「あかつき」である。「あかつき」のうち12号車は1人用個室A寝台「シングルデラックス」、13号車は個室B寝台で1人用個室「ソロ」と2人用個室「デュエット」が半分ずつ。東京寄り最後尾の14号車は寝台料金のいらない指定席車。お隣の13号車から見て手前はテーブルを備えたロビー室、奥の4列は女性専用席になっており、これらに挟まれる形で一般座席室がある。以前は「あかつき」でも長崎寄りの先頭に連結されていたはずだが、いつの間にやら連結位置が逆になっている。いずれにしても、この指定席車は片側にしか通り抜けができない構造で常に先頭か最後尾に連結されるから、通り抜けのために男性客が通路を通ることもなく、奥の女性専用席は「治安」も保たれるわけだ。こうしてみると、「あかつき」には指定席車からロビー室、B寝台からA寝台(それも2種類の個室)まで実に様々な車両がある。1960~70年代の寝台特急全盛期と比べても、ないのは食堂車くらいという多彩な編成だ。これに比べ、「彗星」は「ソロ」が1両連結されている他は全て旧態依然とした開放式の2段式B寝台車。両者の実力の差と言ってしまえばそれまでだが、「彗星」は「あかつき」と比べると格落ちの印象は否めない。
寝台特急用の客車で現役のものにはこの14形客車と24形客車がある。14系と24系の最大の違いは車内電源の発電方式にあり、24系は編成の最後尾または先頭に連結された「電源車」で集中的に発電を行う方式である。これに対し、「彗星・あかつき」に使われている14系は分散電源方式と呼ばれ、電源専用車を置かない代わりに、小型の発電装置を搭載した車両をあちこちに分散して配置する方式である。「彗星・あかつき」のように2列車を併結して運転し、途中区間で分割する場合、両方の編成に発電装置がなければならないので分散電源方式が採られるのだ。
あわただしく飲み物と若干の食料品を調達したのち、3号車に乗り込む。走行音を録音するためレコーダーを設定するなどしているうちに、列車はゆっくりと発車した。寝台特急は、旧国鉄時代から運転するのが最も難しい列車であると言われている。機関車と先頭客車の間の連結器に遊びがあるため、いきなり機関車から大きな動力をかけると客車に衝撃を与えてしまうからだ。このため寝台特急では、昔ながらの自動空気式ブレーキが完全に緩み切るまでに時間がかかる性質を利用して発車直前にブレーキを解放、客車のブレーキが完全に緩み切らないうちに機関車に軽く動力をかけ、連結器の隙間が埋まって客車の重みを感じたら少しずつ機関車の動力を強くしていくという方法で衝撃のない発車ができるように努めてきた。こうした「職人芸」的な運転技能は、運転士の若返りもあって低下している感もある昨今だが、この日の「彗星・あかつき」の運転士は私に発車したことすら感じさせなかったのだから大したものである。
京都から大阪までは関西の市街地の中を、緩行線の電車と抜きつ抜かれつしながら走る。新大阪、大阪ではパラパラと乗客がある。新大阪発車時点で私が確認した乗客数は、1号車1人、3号車15人、4号車14人、5号車10人、6号車3人。2号車は個室のため確認できないが、寝台券は売り切れだったから乗車定員通り26名が乗っているとすれば「彗星」は合計69人。7号車4人、9号車6人、10号車5人、11号車ゼロ、14号車3人。12、13号車は個室で確認できず、寝台券の発売状況も把握していないから「あかつき」は18人プラスアルファ。個室が仮に満室だったとしても2両で52人だから、最大で彗星と同程度だ。設備が貧弱な彗星の方に乗客が集中しているのは、やはり「さよなら乗車組」の影響と考えていいだろう。また、開放式B寝台では私の乗った3号車が最も乗客が多いが、これは1、2号車が喫煙車、3号車が禁煙車で、切符を買うときに禁煙車を指定した人には3号車から順に席が割り当てられることが影響していると考えていいのではないだろうか。
そんなことを考えているうちに「彗星・あかつき」は三ノ宮に停車した。三ノ宮発車直後の21時30分過ぎ、「すでにお休みになっているお客様もいらっしゃいますので、緊急時を除き、明日午前6時過ぎまで放送を控えさせていただきます」と車掌によるお休み放送が流れる。寝台特急列車の風物詩である。お休み放送が終わると車内は減光され薄暗くなる。私もそろそろ寝台に入る時間帯だが、せっかくの寝台特急なのだからせめて一杯くらいは飲もうと思い、姫路で営業終了予定の車内販売員をつかまえ缶ビールを求める。車内販売のワゴンの周りに人だかりができているので何事かと思ったら、「彗星引退記念 西日本旅客鉄道株式会社」と印刷された彗星の行先表示板が売っており、ファンが我先にと買い求めている。レプリカだとわかっていても、幼い日の思い出の列車がなくなると思うとつい買い求めてしまう。全くJR西日本ときたら、安全対策は穴だらけのくせに、鉄道ファン心理をくすぐるこうした商売のやり方は他のどこの会社よりも上手いのだ。
姫路でその車内販売員も下車し、喧噪も消えた車内は静かになった。いよいよ床に入る時間が近づいたことを悟る。後で述べる理由によって、明日朝は4時半には起きねばならない。6時間の睡眠時間を確保するためにはもう眠らなければ間に合わないので、私も寝台に入る。いつしか私は汽笛を子守歌に、深い眠りに引きずり込まれていた。
翌9月25日の明け方4時過ぎ。セットしておいた携帯電話のアラームで目覚める。どうやら6時間の睡眠は確保できたらしい。まだ車内は完全に眠りに支配されており、3号車では私以外に動くものは見あたらない。もとより鉄道が興味の対象でなく、ただの移動手段に過ぎない一般乗客にとっては起き出すような時間ではない。
そんな早い時間に私が起き出したのは鉄道ファンにとって共通の理由によってである。事実、他の車両に歩いて行くと私以外にも同じことを考えている鉄道ファンとおぼしき人たちが動き回っている。まもなく「儀式」が始まるのだ。
東海道本線の電化は東京~国府津間の直流に始まり、以降西に延びていった。1941年、太平洋戦争が近づくきな臭い情勢の中で開通した関門トンネル(下関~門司)は開通当初から直流電化を採用した。戦後に入り、さらに西に延びた東海道・山陽本線の直流電化はついに下関に達し、東京~門司間が直流電化でつながる。一方、九州では国鉄での交流電化技術が進んだことから交流電化方式を採用。門司以西は交流電化方式となった。このときに門司駅構内は直流から交流に変更され、門司駅と関門トンネル九州側入口との間に交流、直流を切り替えるための死電区間(デッドセクション)が設けられたのである。
関門トンネルは海底トンネルだから、初めに上って最後に下る山越えのトンネルと違い、最初は下って最後に上る(この点は青函トンネルも同じ)。鉄道にとっては急勾配である25パーミル(1000分の25、1000メートル進む間に25メートルの高低差がある)を下って海底に潜った後、一転して25パーミルの上り勾配で地上を目指し、急カーブが連続するトンネルの九州側で失速しないように速度を維持しながら、地上に飛び出すと死電区間があり、電源の切換、さらに門司駅構内の信号と速度制限が連続する関門区間は運転士泣かせの難所である。
この死電区間での電源切換のため、下関では機関車の交換が行われる。この交換こそ、寝台特急の九州入りを告げる「儀式」であり、それは寝台特急というものが戦後、この日本に現れてから1日も欠かさず行われ、現在も続いているものである。
午前4時28分。定刻通り「彗星・あかつき」は下関に到着した。扉が開くと、カメラを持ったファンが一斉にホームに躍り出る。ファンの目がただ一点、列車の先頭に注がれる中、係員が連結器を外し、ブレーキ伝導用のエアーホースを抜くと「プシュッ」という空気音がする。「ピョッ」という短い汽笛一声、直流電気機関車EF66型がスルスルと離れ、遠ざかる。しばらく後、関門区間を受け持つ交流・直流両用電気機関車…EF81型がスルスルと近づき、客車の前でいったん停車。同じく「ピョッ」という短い汽笛を発した後、ゆっくりと近づき、係員が警告灯を揺らすと同時にカチャリと連結器のつながる音がする。係員がエアーホースをつなぎ、作業完了である。
4時33分、下関を発車した「彗星・あかつき」は、関門トンネルに突入する。海底に向かって転がり落ちる列車の音がトンネルの壁に反響する。一転して海底から地上に向かう上り勾配になると、壁に当たって跳ね返った機関車のモーター音が凄まじい轟音となって耳に侵入してくる。全身に鳥肌が立つほどの迫力がある。
関門トンネルの出口に近づくと、突然モーターの轟音が途切れる。急カーブで身をくねらすように地上に躍り出ると、死電区間に入った機関車が迎える一瞬の静寂…この恐ろしくなるほどの激しい落差が、この関門区間の魅力である。交流区間に入った列車は4時41分、門司到着だ。
門司では「彗星」と「あかつき」の分割が行われる。彗星が日豊本線に入るのは小倉発車後だから、分割作業自体は小倉でも構わないが、機関車交換作業のために一晩中係員が常駐し、態勢が充実している門司に面倒な作業は集約した方がよいのだ。6号車と7号車の間の連結器を係員が外し、4時47分、一足先に彗星が発車、その後「あかつき」に交流電気機関車…ED76型を連結すると「あかつき」は長崎へ向け旅立ってゆく。「あかつき」は、門司~長崎間では7号車から14号車だけの変な形になるが、それが併結列車というものだ。
門司を発車した彗星は小倉停車後、EF81型牽引のまま日豊本線に入り、南を目指す。私が幼い頃、いつも金網にへばりついて彗星を見ていたであろう南小倉駅を通過。懐かしさで胸がいっぱいになる。「いつかあの寝台で眠ってみたい」と、羨望の眼差しで彗星を眺めていた幼い日の自分との約束を今ここに果たしたのだ。数十年の時を経て、夢にまで見た凱旋。それだけでも来て良かったと思う。夢見ていた彗星からはずいぶん色あせてしまったけれど…。
日豊本線を走り続ける彗星は大分で小休止。ここで機関車の交換である。国鉄時代、寝台特急の機関車交換は門司とあらかた決まっていたが、JR化以降は門司機関区がJR貨物の所有になり、JR九州の関門区間用機関車は大分に所属するようになった。それに伴い、下関から交流~直流区間の受け渡しが主任務だったEF81型が大分まで長距離を走る機会も増える。EF81型が離れた後、「あかつき」に使われたのと同じ形式の交流専用機…ED76型のお出ましである。
すでに夜が明けた車内では、列車内で夜を明かした旅人たちと、夜が明けてから乗り込んで来た短距離利用客が入り交じり始めた。この「彗星」は、日豊本線の1番特急の役割も果たしており、別府からは寝台料金なしでの乗車が認められている。自由席特急料金と同額の「立席特急券」を駅で事前購入すれば乗車できるサービスで、国鉄時代から続いており「ヒルネ(昼寝)」乗車と俗称される。立席特急券という言葉のニュアンスから、空席があっても直立不動でいなければならないように思ってしまうが、国鉄~JRの用語で立席とは「座席番号の指定を行わない」という意味であり、着席を禁ずる意味の用語ではないから、空席があればもちろん座ることができる。
大分を発車した彗星のスピードは落ち、急カーブが続く地形の中、時折車窓に海を見ながら南進する。取り立てて急ぐわけでもなく、単線区間となった日豊本線で時折対向列車とすれ違うために立ち止まったりする。車内には怠惰な時間が流れている。「圧倒的に速い飛行機や、圧倒的に安い高速バスがあるのになぜ寝台特急なのか」と私もよく尋ねられるが、この怠惰な時間こそが寝台特急の特徴であり、他のどの交通機関にも代え難い宝物である。仕事のことを英語でビジネス(business)というが、これは「忙しい」という意味の形容詞busyと同語源であるといわれている。そして「忙」という漢字は「心を亡くす」と書く。仕事とは忙しいことと同義であり、忙しくしていると心を亡くしてしまう。寝台特急の怠惰な時間こそ、亡くしてしまった心を取り戻すための良薬であり最高の贅沢に他ならない。遅くて目新しくもない寝台特急に高い金を払って乗る人たちのことを、こう説明すると理解してもらえるかもしれない。
大分・宮崎県境にあり、「宗太郎越え」といわれる峠を越えると宮崎が近づいてくる。最後の発車オルゴールが流れる。列車の歩みに合わせたかのような、ゆったりとした車掌のアナウンスが終わり、10時41分、定刻通り南宮崎に到着。京都を発車してから14時間21分の長い長い旅路が終わった。
かつては鹿児島本線経由で西鹿児島(現在の鹿児島中央)まで走っていた「なは」が熊本打ち切りとなった今、彗星は南九州を走る最後の寝台特急だった。その彗星の廃止は南九州から寝台特急が消えることを意味するわけだが、最後に寝台特急を取り巻く情勢、今後の見通しなどについて私の考え方を述べておこう。
九州寝台特急については今後も明るい見通しはない。その衰退をどう食い止めるかは鉄道ファンにとって古くて新しい問題であり、国鉄時代末期から延々と議論が続いてきた。30年前と変わらない陳腐な姿で食堂の営業もなく、車内販売もわずかな区間で細々と営業するだけというのでは、どんなに夜行需要があったとしてもつなぎ止めることは困難だろう。
しかし、これは「現状をそのまま放置した場合」のことである。走行区間のほとんどが新幹線と並行している東海道・山陽筋の寝台特急は、どんな手段を使っても再生は不可能と見られていたが、その中でも最も新幹線との並行率が高いはずの「出雲」(出雲市行き)、「瀬戸」(高松行き)がそれを変えた。車両を一新して個室寝台中心とし、夜行列車らしい時間帯に出発して適切な時間に目的地に着くダイヤを組み、寝台料金不要でしかも横になって眠れる「ノビノビ座席」(ゴロ寝車両)も連結した「サンライズ出雲・瀬戸」は高い乗車率を誇り、ノビノビ座席は今も指定席券が取りにくいほどの人気がある。夜行高速バスがそこそこ乗車率を維持している現状を見ても、夜行需要がなくなったとは考えられないのだ。陸上移動では時間のかかる遠隔地に出かける場合など、むしろ夜行需要は健在と見たほうがいい。JRグループの中でも、北海道行きの「北斗星」(上野発)、「トワイライトエクスプレス」(大阪発)は高い人気を誇っており、九州寝台特急だけが需要を取りこぼしてきたのである。なぜ九州寝台特急だけがいつまでも旧態依然としたまま改善されず、長期低落を続けるのだろうか。座して死を待つだけの営業政策がどうしてJR化以降も20年間、放置され続けてきたのだろうか?
その答えのひとつが分割・民営化にある、とすると皆さんは驚かれるかもしれない。しかしそれは事実である。JR発足時のJR各社間申し合わせで、複数のJR会社間をまたいで走る列車の運賃・料金収入を各社へ配分する際は営業キロ比例とする、と決められた。この基準に従えば、東京発九州行き寝台特急の場合、東京~熱海間だけを受け持つJR東日本と、九州島内しか営業エリアがないJR九州に著しく不利であることがわかる。機関車を連結したり客車を回送したりして発車準備をするのは始発駅を受け持つJR東日本であり、門司・大分での機関車交換や「2階建て」列車の分割などのコストはJR九州が全て負っているにもかかわらず、である。分割・併合、機関車交換、発車準備などのコストばかりかかる割には実入りの少ない寝台特急を、この両社が廃止したがっていたとしても不思議はない。一方、JR東海・西日本の両社にとっては、煩わしいコストもかけずに自社区間の通過収入が営業キロ比例で手に入り、しかも分割・併合のコストもなく、運転士の人件費程度を負担すれば済む寝台特急はそれなりにおいしい列車だったといえるのだ。
東日本・九州の両社にとっては、コストばかりかかり実入りの少ない寝台特急はお荷物でしかなく、また東海・西日本の両社にとっては、寝ていても収入が手に入る列車にわざわざコストをかけてまで改良を施そうとはしない。かくして九州寝台特急は、改善が必要であることを誰もが認める状態にありながら、投資とコスト・利潤とのバランスが取れないからと誰も改良に乗り出さず、そして死期を迎えつつある。旧国鉄時代からの輝かしい歴史を持つ九州寝台特急こそ、分割・民営化の矛盾の象徴的存在なのである。各社ごとの利害関係がぶつかり合う市場原理だけに列車の運行を委ねるとどういうことが起こるか、これほどはっきりと示してくれる例はない。
そこで提案がある。分割・民営化体制に風穴を開ける意味からも、JR発足時の「申し合わせ」を見直してはどうだろうか。当面は九州寝台特急に限定し、列車ごとに担当の会社を決め、その列車に関しては走行区間にかかわらず、車両・設備の改良まで含めすべてその会社に責任を持たせるのである(彗星の廃止によって、首都圏・関西~九州間の寝台特急は「はやぶさ」「富士」「あかつき」「なは」の4本になるので、東日本・東海・西日本・九州の各社がそれぞれ1本ずつ受け持てば公平になる)。努力した会社がそれに見合う結果を得られるようなシステムにすれば改善が図られることは「サンライズ出雲・瀬戸」が証明している。もちろんこれは対症療法であり、根本的な解決につながらないことくらい百も承知している。しかし、全ての列車に何の改善も施されないまま、何もかもが壊死していくよりはずっといいのではないだろうか。会社の経営体制の問題はそれから考えることにして、九州寝台特急にこれ以上の廃止を出さないようにするためにはそれしかないと、私はいま考えている。
(2005/10/2・特急たから)
彗星との出会いは物心つく頃に始まる。私の生まれ育った家のすぐ前が国鉄日豊本線だったことはすでに何度かこのコラムで記したが、彗星は家の前を深夜、そして早朝に通っていた。その当時(1970年前後)の彗星に使われていた車両は、マニア的に言えば20系と呼ばれるものだ。1958年に「あさかぜ」として登場した当時は固定編成方式、全車冷房化、デラックスな接客設備などが話題となり「走るホテル」ともてはやされたが、駅での扉の開閉は手動式という今からすれば信じられない時代物でもある。3段式寝台のため頭が中段寝台に当たってしまい、昼間は寝台に腰掛けることもできなかった。年輩の人の中には、朝、自宅のベッドのつもりでガバッと上半身を起こしたら、中段寝台に勢いよく頭をぶつけてしまい、一気に眠気も覚めてしまったという体験を持っている人も多いだろう。しかし、幼い頃の私はそんな20系の歴史など知らなかったから、3段式の寝台を設けるため、建築限界ギリギリまで張り出した丸い屋根を見ながら、いつかあの寝台で眠ってみたいと思っていた。
当時のダイヤで、関西へ向かう上りの彗星が私の家の前を通るのが夜の11時頃、南九州に向かう下り彗星は朝の5時頃だったから、とりわけ夜が明けるのが早い夏の季節、両親に見つからないようにこっそり目覚まし時計をセットし、東の空が白みかけた朝5時頃、家の前を通る下り彗星を見るのが幼い日の私の楽しみだった。上りの彗星は家の中から通過音だけを聞き、大阪とはどんな所なのだろうと想像していた。そういうわけで、彗星は幼い頃の私を鉄道ファンへといざなってくれた偉大な親であり、廃止の報に接したとき、これはなんとしてでも行かねばと思った。とはいえ、今年春に寝台特急「さくら」が廃止になるときに、寝台券が取れずに乗れなかった苦い経験があったから、今回は通勤途上にある某駅で早めに寝台券を確保し、万全の体制でのぞむことにした。
9月24日。夕方の新幹線で名古屋から京都へ向かう。京都につくともう彗星は入線していた。14系と呼ばれる寝台特急、いわゆるブルートレイン用の客車13両編成を、EF66型と呼ばれる直流電気機関車が牽引する。彗星は、京都から九州の門司までは、別の寝台特急である「あかつき」(長崎行き)と併結される。2つの愛称を持つ別々の列車が一部の区間で併結して運転される「2階建て」列車である。向かって九州寄りの1号車から6号車までの6両が「彗星」、東京寄りの7号車から14号車まで7両(この日は非連結の8号車を除く)が「あかつき」である。「あかつき」のうち12号車は1人用個室A寝台「シングルデラックス」、13号車は個室B寝台で1人用個室「ソロ」と2人用個室「デュエット」が半分ずつ。東京寄り最後尾の14号車は寝台料金のいらない指定席車。お隣の13号車から見て手前はテーブルを備えたロビー室、奥の4列は女性専用席になっており、これらに挟まれる形で一般座席室がある。以前は「あかつき」でも長崎寄りの先頭に連結されていたはずだが、いつの間にやら連結位置が逆になっている。いずれにしても、この指定席車は片側にしか通り抜けができない構造で常に先頭か最後尾に連結されるから、通り抜けのために男性客が通路を通ることもなく、奥の女性専用席は「治安」も保たれるわけだ。こうしてみると、「あかつき」には指定席車からロビー室、B寝台からA寝台(それも2種類の個室)まで実に様々な車両がある。1960~70年代の寝台特急全盛期と比べても、ないのは食堂車くらいという多彩な編成だ。これに比べ、「彗星」は「ソロ」が1両連結されている他は全て旧態依然とした開放式の2段式B寝台車。両者の実力の差と言ってしまえばそれまでだが、「彗星」は「あかつき」と比べると格落ちの印象は否めない。
寝台特急用の客車で現役のものにはこの14形客車と24形客車がある。14系と24系の最大の違いは車内電源の発電方式にあり、24系は編成の最後尾または先頭に連結された「電源車」で集中的に発電を行う方式である。これに対し、「彗星・あかつき」に使われている14系は分散電源方式と呼ばれ、電源専用車を置かない代わりに、小型の発電装置を搭載した車両をあちこちに分散して配置する方式である。「彗星・あかつき」のように2列車を併結して運転し、途中区間で分割する場合、両方の編成に発電装置がなければならないので分散電源方式が採られるのだ。
あわただしく飲み物と若干の食料品を調達したのち、3号車に乗り込む。走行音を録音するためレコーダーを設定するなどしているうちに、列車はゆっくりと発車した。寝台特急は、旧国鉄時代から運転するのが最も難しい列車であると言われている。機関車と先頭客車の間の連結器に遊びがあるため、いきなり機関車から大きな動力をかけると客車に衝撃を与えてしまうからだ。このため寝台特急では、昔ながらの自動空気式ブレーキが完全に緩み切るまでに時間がかかる性質を利用して発車直前にブレーキを解放、客車のブレーキが完全に緩み切らないうちに機関車に軽く動力をかけ、連結器の隙間が埋まって客車の重みを感じたら少しずつ機関車の動力を強くしていくという方法で衝撃のない発車ができるように努めてきた。こうした「職人芸」的な運転技能は、運転士の若返りもあって低下している感もある昨今だが、この日の「彗星・あかつき」の運転士は私に発車したことすら感じさせなかったのだから大したものである。
京都から大阪までは関西の市街地の中を、緩行線の電車と抜きつ抜かれつしながら走る。新大阪、大阪ではパラパラと乗客がある。新大阪発車時点で私が確認した乗客数は、1号車1人、3号車15人、4号車14人、5号車10人、6号車3人。2号車は個室のため確認できないが、寝台券は売り切れだったから乗車定員通り26名が乗っているとすれば「彗星」は合計69人。7号車4人、9号車6人、10号車5人、11号車ゼロ、14号車3人。12、13号車は個室で確認できず、寝台券の発売状況も把握していないから「あかつき」は18人プラスアルファ。個室が仮に満室だったとしても2両で52人だから、最大で彗星と同程度だ。設備が貧弱な彗星の方に乗客が集中しているのは、やはり「さよなら乗車組」の影響と考えていいだろう。また、開放式B寝台では私の乗った3号車が最も乗客が多いが、これは1、2号車が喫煙車、3号車が禁煙車で、切符を買うときに禁煙車を指定した人には3号車から順に席が割り当てられることが影響していると考えていいのではないだろうか。
そんなことを考えているうちに「彗星・あかつき」は三ノ宮に停車した。三ノ宮発車直後の21時30分過ぎ、「すでにお休みになっているお客様もいらっしゃいますので、緊急時を除き、明日午前6時過ぎまで放送を控えさせていただきます」と車掌によるお休み放送が流れる。寝台特急列車の風物詩である。お休み放送が終わると車内は減光され薄暗くなる。私もそろそろ寝台に入る時間帯だが、せっかくの寝台特急なのだからせめて一杯くらいは飲もうと思い、姫路で営業終了予定の車内販売員をつかまえ缶ビールを求める。車内販売のワゴンの周りに人だかりができているので何事かと思ったら、「彗星引退記念 西日本旅客鉄道株式会社」と印刷された彗星の行先表示板が売っており、ファンが我先にと買い求めている。レプリカだとわかっていても、幼い日の思い出の列車がなくなると思うとつい買い求めてしまう。全くJR西日本ときたら、安全対策は穴だらけのくせに、鉄道ファン心理をくすぐるこうした商売のやり方は他のどこの会社よりも上手いのだ。
姫路でその車内販売員も下車し、喧噪も消えた車内は静かになった。いよいよ床に入る時間が近づいたことを悟る。後で述べる理由によって、明日朝は4時半には起きねばならない。6時間の睡眠時間を確保するためにはもう眠らなければ間に合わないので、私も寝台に入る。いつしか私は汽笛を子守歌に、深い眠りに引きずり込まれていた。
翌9月25日の明け方4時過ぎ。セットしておいた携帯電話のアラームで目覚める。どうやら6時間の睡眠は確保できたらしい。まだ車内は完全に眠りに支配されており、3号車では私以外に動くものは見あたらない。もとより鉄道が興味の対象でなく、ただの移動手段に過ぎない一般乗客にとっては起き出すような時間ではない。
そんな早い時間に私が起き出したのは鉄道ファンにとって共通の理由によってである。事実、他の車両に歩いて行くと私以外にも同じことを考えている鉄道ファンとおぼしき人たちが動き回っている。まもなく「儀式」が始まるのだ。
東海道本線の電化は東京~国府津間の直流に始まり、以降西に延びていった。1941年、太平洋戦争が近づくきな臭い情勢の中で開通した関門トンネル(下関~門司)は開通当初から直流電化を採用した。戦後に入り、さらに西に延びた東海道・山陽本線の直流電化はついに下関に達し、東京~門司間が直流電化でつながる。一方、九州では国鉄での交流電化技術が進んだことから交流電化方式を採用。門司以西は交流電化方式となった。このときに門司駅構内は直流から交流に変更され、門司駅と関門トンネル九州側入口との間に交流、直流を切り替えるための死電区間(デッドセクション)が設けられたのである。
関門トンネルは海底トンネルだから、初めに上って最後に下る山越えのトンネルと違い、最初は下って最後に上る(この点は青函トンネルも同じ)。鉄道にとっては急勾配である25パーミル(1000分の25、1000メートル進む間に25メートルの高低差がある)を下って海底に潜った後、一転して25パーミルの上り勾配で地上を目指し、急カーブが連続するトンネルの九州側で失速しないように速度を維持しながら、地上に飛び出すと死電区間があり、電源の切換、さらに門司駅構内の信号と速度制限が連続する関門区間は運転士泣かせの難所である。
この死電区間での電源切換のため、下関では機関車の交換が行われる。この交換こそ、寝台特急の九州入りを告げる「儀式」であり、それは寝台特急というものが戦後、この日本に現れてから1日も欠かさず行われ、現在も続いているものである。
午前4時28分。定刻通り「彗星・あかつき」は下関に到着した。扉が開くと、カメラを持ったファンが一斉にホームに躍り出る。ファンの目がただ一点、列車の先頭に注がれる中、係員が連結器を外し、ブレーキ伝導用のエアーホースを抜くと「プシュッ」という空気音がする。「ピョッ」という短い汽笛一声、直流電気機関車EF66型がスルスルと離れ、遠ざかる。しばらく後、関門区間を受け持つ交流・直流両用電気機関車…EF81型がスルスルと近づき、客車の前でいったん停車。同じく「ピョッ」という短い汽笛を発した後、ゆっくりと近づき、係員が警告灯を揺らすと同時にカチャリと連結器のつながる音がする。係員がエアーホースをつなぎ、作業完了である。
4時33分、下関を発車した「彗星・あかつき」は、関門トンネルに突入する。海底に向かって転がり落ちる列車の音がトンネルの壁に反響する。一転して海底から地上に向かう上り勾配になると、壁に当たって跳ね返った機関車のモーター音が凄まじい轟音となって耳に侵入してくる。全身に鳥肌が立つほどの迫力がある。
関門トンネルの出口に近づくと、突然モーターの轟音が途切れる。急カーブで身をくねらすように地上に躍り出ると、死電区間に入った機関車が迎える一瞬の静寂…この恐ろしくなるほどの激しい落差が、この関門区間の魅力である。交流区間に入った列車は4時41分、門司到着だ。
門司では「彗星」と「あかつき」の分割が行われる。彗星が日豊本線に入るのは小倉発車後だから、分割作業自体は小倉でも構わないが、機関車交換作業のために一晩中係員が常駐し、態勢が充実している門司に面倒な作業は集約した方がよいのだ。6号車と7号車の間の連結器を係員が外し、4時47分、一足先に彗星が発車、その後「あかつき」に交流電気機関車…ED76型を連結すると「あかつき」は長崎へ向け旅立ってゆく。「あかつき」は、門司~長崎間では7号車から14号車だけの変な形になるが、それが併結列車というものだ。
門司を発車した彗星は小倉停車後、EF81型牽引のまま日豊本線に入り、南を目指す。私が幼い頃、いつも金網にへばりついて彗星を見ていたであろう南小倉駅を通過。懐かしさで胸がいっぱいになる。「いつかあの寝台で眠ってみたい」と、羨望の眼差しで彗星を眺めていた幼い日の自分との約束を今ここに果たしたのだ。数十年の時を経て、夢にまで見た凱旋。それだけでも来て良かったと思う。夢見ていた彗星からはずいぶん色あせてしまったけれど…。
日豊本線を走り続ける彗星は大分で小休止。ここで機関車の交換である。国鉄時代、寝台特急の機関車交換は門司とあらかた決まっていたが、JR化以降は門司機関区がJR貨物の所有になり、JR九州の関門区間用機関車は大分に所属するようになった。それに伴い、下関から交流~直流区間の受け渡しが主任務だったEF81型が大分まで長距離を走る機会も増える。EF81型が離れた後、「あかつき」に使われたのと同じ形式の交流専用機…ED76型のお出ましである。
すでに夜が明けた車内では、列車内で夜を明かした旅人たちと、夜が明けてから乗り込んで来た短距離利用客が入り交じり始めた。この「彗星」は、日豊本線の1番特急の役割も果たしており、別府からは寝台料金なしでの乗車が認められている。自由席特急料金と同額の「立席特急券」を駅で事前購入すれば乗車できるサービスで、国鉄時代から続いており「ヒルネ(昼寝)」乗車と俗称される。立席特急券という言葉のニュアンスから、空席があっても直立不動でいなければならないように思ってしまうが、国鉄~JRの用語で立席とは「座席番号の指定を行わない」という意味であり、着席を禁ずる意味の用語ではないから、空席があればもちろん座ることができる。
大分を発車した彗星のスピードは落ち、急カーブが続く地形の中、時折車窓に海を見ながら南進する。取り立てて急ぐわけでもなく、単線区間となった日豊本線で時折対向列車とすれ違うために立ち止まったりする。車内には怠惰な時間が流れている。「圧倒的に速い飛行機や、圧倒的に安い高速バスがあるのになぜ寝台特急なのか」と私もよく尋ねられるが、この怠惰な時間こそが寝台特急の特徴であり、他のどの交通機関にも代え難い宝物である。仕事のことを英語でビジネス(business)というが、これは「忙しい」という意味の形容詞busyと同語源であるといわれている。そして「忙」という漢字は「心を亡くす」と書く。仕事とは忙しいことと同義であり、忙しくしていると心を亡くしてしまう。寝台特急の怠惰な時間こそ、亡くしてしまった心を取り戻すための良薬であり最高の贅沢に他ならない。遅くて目新しくもない寝台特急に高い金を払って乗る人たちのことを、こう説明すると理解してもらえるかもしれない。
大分・宮崎県境にあり、「宗太郎越え」といわれる峠を越えると宮崎が近づいてくる。最後の発車オルゴールが流れる。列車の歩みに合わせたかのような、ゆったりとした車掌のアナウンスが終わり、10時41分、定刻通り南宮崎に到着。京都を発車してから14時間21分の長い長い旅路が終わった。
かつては鹿児島本線経由で西鹿児島(現在の鹿児島中央)まで走っていた「なは」が熊本打ち切りとなった今、彗星は南九州を走る最後の寝台特急だった。その彗星の廃止は南九州から寝台特急が消えることを意味するわけだが、最後に寝台特急を取り巻く情勢、今後の見通しなどについて私の考え方を述べておこう。
九州寝台特急については今後も明るい見通しはない。その衰退をどう食い止めるかは鉄道ファンにとって古くて新しい問題であり、国鉄時代末期から延々と議論が続いてきた。30年前と変わらない陳腐な姿で食堂の営業もなく、車内販売もわずかな区間で細々と営業するだけというのでは、どんなに夜行需要があったとしてもつなぎ止めることは困難だろう。
しかし、これは「現状をそのまま放置した場合」のことである。走行区間のほとんどが新幹線と並行している東海道・山陽筋の寝台特急は、どんな手段を使っても再生は不可能と見られていたが、その中でも最も新幹線との並行率が高いはずの「出雲」(出雲市行き)、「瀬戸」(高松行き)がそれを変えた。車両を一新して個室寝台中心とし、夜行列車らしい時間帯に出発して適切な時間に目的地に着くダイヤを組み、寝台料金不要でしかも横になって眠れる「ノビノビ座席」(ゴロ寝車両)も連結した「サンライズ出雲・瀬戸」は高い乗車率を誇り、ノビノビ座席は今も指定席券が取りにくいほどの人気がある。夜行高速バスがそこそこ乗車率を維持している現状を見ても、夜行需要がなくなったとは考えられないのだ。陸上移動では時間のかかる遠隔地に出かける場合など、むしろ夜行需要は健在と見たほうがいい。JRグループの中でも、北海道行きの「北斗星」(上野発)、「トワイライトエクスプレス」(大阪発)は高い人気を誇っており、九州寝台特急だけが需要を取りこぼしてきたのである。なぜ九州寝台特急だけがいつまでも旧態依然としたまま改善されず、長期低落を続けるのだろうか。座して死を待つだけの営業政策がどうしてJR化以降も20年間、放置され続けてきたのだろうか?
その答えのひとつが分割・民営化にある、とすると皆さんは驚かれるかもしれない。しかしそれは事実である。JR発足時のJR各社間申し合わせで、複数のJR会社間をまたいで走る列車の運賃・料金収入を各社へ配分する際は営業キロ比例とする、と決められた。この基準に従えば、東京発九州行き寝台特急の場合、東京~熱海間だけを受け持つJR東日本と、九州島内しか営業エリアがないJR九州に著しく不利であることがわかる。機関車を連結したり客車を回送したりして発車準備をするのは始発駅を受け持つJR東日本であり、門司・大分での機関車交換や「2階建て」列車の分割などのコストはJR九州が全て負っているにもかかわらず、である。分割・併合、機関車交換、発車準備などのコストばかりかかる割には実入りの少ない寝台特急を、この両社が廃止したがっていたとしても不思議はない。一方、JR東海・西日本の両社にとっては、煩わしいコストもかけずに自社区間の通過収入が営業キロ比例で手に入り、しかも分割・併合のコストもなく、運転士の人件費程度を負担すれば済む寝台特急はそれなりにおいしい列車だったといえるのだ。
東日本・九州の両社にとっては、コストばかりかかり実入りの少ない寝台特急はお荷物でしかなく、また東海・西日本の両社にとっては、寝ていても収入が手に入る列車にわざわざコストをかけてまで改良を施そうとはしない。かくして九州寝台特急は、改善が必要であることを誰もが認める状態にありながら、投資とコスト・利潤とのバランスが取れないからと誰も改良に乗り出さず、そして死期を迎えつつある。旧国鉄時代からの輝かしい歴史を持つ九州寝台特急こそ、分割・民営化の矛盾の象徴的存在なのである。各社ごとの利害関係がぶつかり合う市場原理だけに列車の運行を委ねるとどういうことが起こるか、これほどはっきりと示してくれる例はない。
そこで提案がある。分割・民営化体制に風穴を開ける意味からも、JR発足時の「申し合わせ」を見直してはどうだろうか。当面は九州寝台特急に限定し、列車ごとに担当の会社を決め、その列車に関しては走行区間にかかわらず、車両・設備の改良まで含めすべてその会社に責任を持たせるのである(彗星の廃止によって、首都圏・関西~九州間の寝台特急は「はやぶさ」「富士」「あかつき」「なは」の4本になるので、東日本・東海・西日本・九州の各社がそれぞれ1本ずつ受け持てば公平になる)。努力した会社がそれに見合う結果を得られるようなシステムにすれば改善が図られることは「サンライズ出雲・瀬戸」が証明している。もちろんこれは対症療法であり、根本的な解決につながらないことくらい百も承知している。しかし、全ての列車に何の改善も施されないまま、何もかもが壊死していくよりはずっといいのではないだろうか。会社の経営体制の問題はそれから考えることにして、九州寝台特急にこれ以上の廃止を出さないようにするためにはそれしかないと、私はいま考えている。
(2005/10/2・特急たから)