沖縄産業界の恩人サムエル・C・オグレスビー



サムエル・C・オグレスビー氏は、1911(明治44)年10月25日、アメリカ合衆国バージニア州で生まれた。1933(昭和8)年、メリーランド大学博士課程を卒業。1942年(昭和17)年米国陸軍に従軍し、1945(昭和20)年3月、米陸軍政府将校として来沖した。その後エール大学のファーイースタン・シビル・アフェア・スクールで極東問題と日本語の研鑽を積んだ。

 同氏は、1950(昭和25)年3月、第二次世界大戦終焉の激戦地として灰燼化した沖縄に米国民政府職員として赴任され、沖縄の良き理解者として沖縄の経済、特に工業の振興に献身的に尽くされた。沖縄に勤務した16年間、同氏は、琉球工業連合会(現沖縄県工業連合会)のよきアドバイザーとして深くかかわり多くの産業を育てた。製糖、味噌醤油、食油、ビール、セメント、鉄筋、合板、菓子類に至る各製造業の90%は同氏の後援・指導を受けた。

 以下、オグレスビー氏産業開発基金編「沖縄産業の恩人(故)サムエル・C・オグレスビー氏を讃えて」(昭和61年)に寄せられた寄稿より。

「彼は自分がいったんこうだと思ったことは、上司が難色を示そうと、粘り強く説得して自分の主張を通す、そういう信念と勇気の持ち主であった。」-具志堅宗精

「氏は、自分がアメリカで仕事をしても虫眼鏡で見る程のこともできない、日本の諺にもある通り、「牛の尾たるより、鶏頭たれ」とある。沖縄のために全力を尽くしたいといつも言っておられた。」 -宮城仁四郎

☆琉球工業連合会創立10周年記念事業
1963(昭和38)年5月21日に琉球工業連合会は創立10周年を迎え、これを記念して、会員の芳志を募り、会の発展に大きく寄与したオグレスビー氏の胸像を制作することを決定した。やがて、オグレスビー氏の等身大の、高さ約1.8mの胸像が完成し、翌64(昭和39)年12月2日、那覇市内の琉球東急ホテルで贈呈式と祝賀会が行われた。 

☆オグレスビー氏産業開発基金の設立
 胸像贈呈の2年後、1966(昭和41)年12月20日、オグレスビー氏逝去の報が琉球工業連合会に届いた。享年55歳。「沖縄に埋葬してほしい」との遺言があり、遺体は泊国際墓地に埋葬された。

 翌67(昭和42)年に同氏の長年の功績を記念して、工業関係有志の浄財によりオグレスビー氏産業開発基金を設立し、現在まで奨学金授与並びに工業功労者表彰を毎年行っている。

(1)オグレスビー氏工業功労者賞

 同賞の審査基準は、沖縄の工業発展に著しく功績のあった者に授与しようというもので、
○新規企業を導入して成功した者
○新製品を開発して成功した者
○その経営する企業によって沖縄経済に大きく貢献した者
○人格高潔なる者
○その他

また、沖縄の産業開発に有益な事業を興した者となっている。

(2)工業関係学生の学資援助

 オグレスビー氏奨学金は、工業関係学科の在学生に対して、心身健全、志操堅固、学業優秀で、経済的に学資の支出が困難な学生に学資の一部を支給している。

☆オグレスビー氏顕彰墓碑建立
1968(昭和43)年には、沖縄財界人の浄財により、那覇市泊の国際墓地に顕彰墓碑を建立し、以後、命日(12月20日)には追悼式を墓前で行っている。


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めじろと拳銃

冬になるとめじろが村にやってきて、がしゅまるの実や椿の蜜を食べる。
村の大通り沿いに空き屋敷があった。屋敷の中は雑草が茂っていた。屋敷の大通りに面している側に大きながじゅまるの木が植わっていて実を食べにやってきためじろが枝から枝へ飛び回っていた。私たちががじゅまるの下で遊んでいるとスペイン系のアメリカ青年とウチナーの彼女がやってきた。アメリカ青年は背が低くウチナーンチュと同じくらいであった。彼女は陽気で派手な格好をしていた。まだ十代のようであった。二人はがじゅまるを見上げてめじろを見ながら話し合った。彼女はめじろを指さしながら話した。するとアメリカ青年は内ポケットから小型の拳銃を出して、めじろに向けると一発撃った。しかし、めじろは何事もなかったように飛び回っている。彼女は笑いながらアメリカ青年をからかった。めじろに命中させることができなかったので「へたくそ」とでも言ったのだろう。二人の会話はざっくばらんで少年と少女の会話のようであった。
アメリカ青年はむきになってめじろに向かって数発撃った。ところがめじろは何事もなかったように平気で枝から枝へ飛び回っていた。彼女は大笑いした。アメリカ青年は弁解しながら拳銃をポケットに戻した。
彼女はアメリカ青年をからかい、アメリカ青年は弁解しながら去っていった。

「へたくそだなあ」
二人が去った後にヨシ坊が言った。飛び回っているめじろに命中させるのは非常に難しいことであるが、私たちは赤城圭一郎のファンで、抜き打ちの竜と呼ばれている拳銃の名手の映画を見ていた。竜は振り向きざまに拳銃を撃って、相手の拳銃を弾き飛ばした。竜はいつも敵の拳銃に命中させて拳銃を弾き飛ばして体に命中させることはしなかった。どんなに拳銃の名手でも竜のようなことはできるはずないが、小学生の私たちはできるものだと信じていた。だから、アメリカ青年がめじろを撃ち落とすことができなかったのをへたくそと思ったのだ。
このアメリカ青年は拳銃を撃つのが好きなようで、一号線を超えた場所に輸送管に沿って車道があったが、そこでカジノで使うチップを道路の反対側に立てて、チップに向けて撃っていた。
弾はチップに当たったり外れたりした。木の枝に自転車のチューブを細く切って取り付けたゴムカンという本土ではパンコと呼ぶ小石を飛ばすのを私たちは持っていたが、彼の拳銃の腕より私のほうが上だと思った。彼に勝負を挑みたかったが英語は話せないし、彼は私たちを無視して彼女とばかりいちゃついていたので勝負を挑むのを止めた。
勝負をしなかったのは心残りである。
拳銃を撃つのを見たのは彼が最初で最後だった。彼以外に拳銃を持ち歩いているアメリカ人はいなかった。
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