沖縄産業界の恩人・サムエル・C・オグレスビー

探し求めていた本がやっと手に入った。それはある人物について書いた本である。
彼は世界的に有名な人物ではない。日本でも有名ではない。しかし、沖縄の経済界ではとても有名な人物である。その人物の名前はサムエル・C・オグレスビーという。私はサムエル・C・オグレスビーという人物を知らなかった。10年近く前に沖縄の経済発展に貢献した人物であると紹介している記事があったが、切抜きをしなかったので、名前を覚えることができなかった。
数日前の新聞に彼の名前が載っていたので、さっそくインターネットで彼に関する本を探した。アマゾンには彼に関する本はなかった。沖縄の古本屋で「沖縄産業の恩人 サムエル・C・オグレスビー氏を讃えて」という本があったので注文した。その本はサムエル・C・オグレスビー氏への追悼本である。彼に関する本はこの一冊だけのようだ。

サムエル・C・オグレスビーは1950年から16年間沖縄の産業発展に尽力した人物である。
彼は、砂糖、肥料、たばこ、セメント、ビール等沖縄のほとんどの産業の創立に尽力した人物である。
戦前の沖縄には製糖以外の企業らしい企業ははほとんどなかった。製糖でさえも原始的な製造であり、機械を使った生産ではなかった。
戦後の沖縄の産業は本当にゼロからの出発であった。お金はないし、技術もなかった。産業界への融資、新しい機械の導入などに熱心に尽力したのがサムエル・C・オグレスビー氏なのだ。だから、彼は「沖縄産業の恩人」と呼ばれている。
「沖縄人以上に沖縄を愛した人」という人もいる。

故稲嶺一郎氏は「敵国の住民に対してどうしてこんなに優しい気持ちを持って真剣になれるのだろうかと、アメリカという大国の国民性か、あるいはこの人だけのパーソナリティなのかと、不思議な感じすらした。妙なものだが、実際、日本人が敵国の住民をこのように慈しむことができるだろうか、さえ感じたものである」と述べている。

サムエル・C・オグレスビーは彼の遺言通り、泊の国際墓地で妻と一緒に眠っている。

沖縄の歴史は土地闘争、復帰運動、基地撤去運動などで彩られているが、沖縄人の生活を支えたのは経済であり、産業である。派手な政治の裏で戦後の経済がどのようにして発展したのかを解明するべきである。サムエル・C・オグレスビー氏の研究が待たれる。
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新聞配達は犬との闘い

アメリカ人は大きい犬を飼っている家庭が多い。犬を鎖でつないでいればいいのだが、夜の間は鎖をはずして庭を自由に動き回れるようにする家庭が多かった。外人住宅の新聞配達は犬との闘いでもあった。
犬に襲われた時、絶対に犬に背中を見せて逃げてはいけない。犬は人間より早いからすぐに追いついて尻を噛む。外人住宅だけではなく村でも放し飼いの犬が多かったから、私たち子供は犬に襲われた時の防御のやり方を話し合っていた。防御方法は犬と向かい合い大声を出しながら手を振り回し後ずさりをしていくことだ。普通の犬なら吠えるだけて飛び掛かってはこない。

しかし、外人住宅の犬は大きい。手を振り回しても飛び掛かってくるかも知れない恐怖があった。私は手ではなく新聞紙を丸めて襲おうとする犬の鼻あたりを新聞紙で突きながら後ずさりした。この方法は効果的で、犬は新聞紙を噛もうとして私に飛び掛かることはなかった。
このやり方で犬に噛まれるのを防いできたが、ある家にとても大きい犬がいて、新聞紙でも防げそうになかった。普通は家の中に閉じ込めているのだが、時々庭に放っている時があった。犬はもしかすると私を襲う気はなくて、フレンドリーな気持ちで私に寄ってきたかもしれない。
しかし、でかい犬が吠えながら寄ってくるのはとても恐怖だった。新聞紙を振りかざしながら難を逃れていたが、いつかは新聞紙は通用しなくなって犬に襲われるかも知れないという恐怖があった。恐怖と闘いながら新聞配達をしていたが、そのうちに新聞配達が毎朝来るのを知っていながら、犬を野放しにしている主人に腹が立ってきた。なめられてたまるかという気もちが湧きあがり私は反撃に出ることにした。こぶし大の石を左手に持ち私は庭に入った。新聞を玄関のノブに挿み、玄関から離れている時に裏庭からでかい犬がやってきた。
私は右手に新聞紙を持ちゆっくりと後ずさりした。犬が接近してきた。私は新聞紙を犬の鼻あたりに向けた。犬が新聞紙に触れようとした瞬間に思いっきり石を投げた。石は犬の前足に当たり、犬がウオーンと哀れな声を発した。すると家族がなにごとが起こったのかと一斉に出てきた。私は家族が玄関から出る前に庭の外に出た。背後で主人や妻や子供がわーわー騒いでいるのが聞こえたが、私は振り向かないで次の家に向かった。
翌日から犬を庭に出すことはなくなった。
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