沖縄差別の原因は沖縄にある②の1



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沖縄差別の原因は沖縄にある②の1
ソテツ地獄
 琉球処分により沖縄は琉球王府の支配が終わり明治政府が進める四民平等の社会になった。琉球王府に支配されていた農民は自由になった。砂糖は琉球王府にすべて献納していたが、明治時代になると砂糖は生産した農民のものとなり販売して得たお金は農民のものになった。しかし、地価の2.5%を地租として納めなければならない制度によって農民は高い税金を払わなければならなくなった。
 元王府の武士やノロなどの特権階級だったものは大地主となり小作人を雇って富を得たが、小さな土地を所有していた農民は貧困から抜けることはできなかった。

 沖縄は明治政府の近代化政策により経済は発展していった。琉球処分により日本へ併合され、沖縄県が設置された明治時代から大正にかけての約40年で人口は約20万人増加した。飛躍的な増加である。
 しかし、順調な経済成長に暗雲が垂れ込める時がやってくる。

日露戦争後の不況にあえいでいた日本は、1914(大正3)年に勃発した第一次世界大戦によって撤退したヨーロッパ列強にかわって、アジア市場を独占するようになった。軍需品や鉱産物、薬品関係などの大量輸出によって景気は回復し、日本の工業も発達していった。沖縄もこの大戦景気の恩恵を受けた。沖縄の特産物である砂糖が売れるようになり、大地主は大きな利益をあげて「砂糖成金」が生まれるほどであった。
しかし、この大戦景気は長続きはしなかった。1918年(大正7年)に第一次大戦が終わると、西欧諸国の経済は回復していき、西欧諸国が再びアジア市場に進出してきた。すると、日本の輸出は急速に減少していき、国内では過剰生産による戦後恐慌におちいっていった。砂糖の価格は下落し、沖縄に深刻な不況の波が押し寄せてきた。
 さらに、1923(大正12)年に起こった関東大震災が日本の経済を悪化させていった。不景気はそれだけで終わらなかった。1929(昭和4)年には世界恐慌が起こり、「昭和恐慌」とよばれる慢性的な不況が日本をはじめ沖縄の人々の生活を襲ったのである。
 1918年から始まった不景気は第二次世界大戦まで続いた。この長い不景気は沖縄ではソテツ地獄と呼ばれるほどに最悪な経済状態であった。

 当時の沖縄の人口の7割は農民であった。砂糖の暴落は農民の生活を直撃し米はおろか芋さえも口にできなかったほどであった。多くの農民は野生のソテツを食糧にした。毒性を持つソテツは、調理法をあやまると死の危険があるにもかかわらず、その実や幹で飢えをしのぐほかないほど、農村は疲弊していった。
しかし、このような県民の貧窮にもかかわらず国税は徴収され、さらに台風や干ばつなどが追い打ちをかけたため、県民の暮らしは文字通り地獄の様相を呈していた。農家では身売りが公然とおこなわれた。
 飢えをしのぐために毒性の強いソテツまでも食べている窮状が『沖縄朝日新聞』に掲載され「ソテツ地獄」として内外のジャーナリズムに伝えられた。一家が同じソテツを口にするため、毒にあたると一家全滅になり、その悲惨さが人々の心に深くしみこんだ。

 世界恐慌は沖縄の農民を困窮に追込んでいったが、他方、明治政府の近代化政策によって沖縄経済の中心である製糖は農家の手作業から、大量生産できる製糖工場に変わっていった。本土から企業家がやって来て沖縄に投資したから沖縄経済の近代化が進んでいった。農村では小規模の製糖農民は貧困化して畑を手放す一方、大地主や製糖工場経営者は富み、より富める者とより貧しき者との差が開いていった。貧しき者は一層貧しくなってソテツを食べて生を食いつないでいった。
 沖縄は大正から昭和にかけてソテツ地獄が続いたが、もし、琉球王国時代なら多くの農民が餓死していただろう。しかし、明治時代になると県外や国外に移住することができた。ソテツ地獄から抜け出すために多くの県民が県外や国外に移住した。
 當山 久三が沖縄の貧困を救うために1899年(明治32年)に始めた海外移民はソテツ地獄時代にも多くの県民を海外に移民させた。1899年から1937年までに約7万人の海外移民がいた。當山 久三は沖縄の貧困を救った歴史に残る人物である。

 1920年以降は、主に大阪府や神奈川県への出稼ぎ労働者が毎年1万人以上に増していった。このソテツ地獄時代の大量の大阪移住が沖縄差別を生み出す原因になるのである。

 海外移住は県が計画し、場所、仕事内容を前もって知っていた。移民の仕事の多くは農業であった。海外移住する人たちは仕事をしてお金を儲けて沖縄に帰るという目標を持っていた。しかし、大阪への出稼ぎは海外移住と違うところがあった。
 ソテツ地獄の沖縄で仕事がなく生活に困窮して喰えなくなった農村の青年男女が阪神や京浜の工業地帯に出稼ぎに出たのである。かれらは主として紡績女工や町工場の工員となり、最下層の低賃金労働者として働かなければならなかった。
大阪大正区
 若い頃に大阪には大正区というところがあり、大正区ではウチナー口で話すことができるという噂があった。沖縄でも共通語で話すのが普通であった時代である。大阪でウチナー口で話せるというのは信じられなかった。
 ところがその噂は本当だった。1970年頃に大正区に行った。友人に連れられて沖縄人がよく集まると言う飲み屋にいった。飲み屋ではウチナー口が飛び交っていた。沖縄から遠く離れた本土の大阪で自由自在にウチナー口が話せることに私は嬉しくなり、ウチナー口をまくし立て、ぐでんぐでんに酔っ払った。
 若い頃の私は沖縄人なのだからウチナー口を話すことは当然なことだと考えていたから、ウチナー口を使うことにこだわっていた。ウチナー口は生活用語、共通語は公用語と考えて両方を使いこなすのが沖縄人のあるべき姿だと私は思っていた。だから、高校の時から演劇をやっていたが、標準語を練習する一方ウチナー口にもこだわっていた。

 沖縄差別の原因は大正区にあったといっても過言ではない。沖縄から大阪に移住した人たちが大正区に集中し、沖縄村をつくったのである。
大正区は、かつての淀川水系と大和川水系により運ばれた土砂により出来た大阪湾の三角州の1つである。荒蕪地や湿地帯が多く、それで干拓や埋立が盛んに行われていたので土木関係の仕事が多かった。三軒家(大正区)や津守(西成区)には紡績工場があり、また従来長堀川にあった材木業者が尻無川や木津川河口方面に移転して、貯木場や製材所を設け、一方久保田鉄工所や中島製鋼所をはじめ中小企業が盛んに興り、大正橋架橋工事も行なわれていたので働く気さえあれば就職には困らなかった。

大阪に行けば仕事があるという噂で多くの沖縄人が大阪に向かった。
 1935年時点での集計では、住居3600個余で35000人余りの沖縄出身者が大阪に居住していたと思われるが、大正区の北恩加島が集任地区の最大規模であった。
 大正区に沖縄県民が集中した理由は、大正区には広大な土地があり、そこは材木置き場や野っ原であったことである。沖縄出身者は製材所の豊富な廃材を利用して自分たちで家を造った。
 沖縄の貧しい農民は家を自分たちでつくるのが普通であった。その家は粗末であり雨風をしのげばいいくらいの家であった。貧しい彼らは大正区でも沖縄流の家をつくった。廃材は無料であり土地代も出ない大正区の一角に彼らは家をつくり住んだのである。

 大阪に移住したほとんどの沖縄人は貧しい農民出身であった。彼らは共通語は使えないし、大阪で生活するための基本的な知識もなかった。

沖縄出身の特徴
○共通語が下手だった。
○敬語を知らなかった。
○一軒家を借りて下宿屋をはじめると,そこに沖縄人が殺到した。
○がらが悪い。
○仕事が無いときには部屋の中で角力をして,家は地震みたいに揺れた。
○冬は軒下の板をはいで焚き物にしたりした。
○数人の他府県人の住宅街に引越して来た時は他府県人は沖縄人を馬鹿にして軽蔑するが、芋づるを引くように県人の仲間が漠々多くなって勢力が加わり、おまけに隣人の迷惑などお構ひなしに業苦無人の振舞をやり出すので、後には他県人の方が恐れをなして引越した。
○給料の日払いを要求した。
○仕事を突然辞めた。
○他人の持ち物を勝手に使つた。
○隣近所の迷惑を考えず三線を引き民謡を大声で歌った。
○公園などで沖縄人だけ集まって三線を弾いて民謡を歌った。
 
大阪人や他県人が沖縄出身を嫌った理由が理解できると思う。しかし、彼らのような人間たちだけが沖縄出身者ではなかった。

戦後米国民政府統治時代の初代主席になったのが比嘉修平氏である。また、沖縄の歴史上最初の公選選挙で初代主席になったのが屋良朝苗氏であるが二人とも読谷村の貧しい農村に生まれながら苦学して本土で教員になった。
教員や軍人は実力主義であり、実力があれば教員になれたし、軍隊で出世できた。明治政府が身分制度を廃止して四民平等の社会にしたからである。 
民間ではまだまだ差別が強かったので貧しい農民の子が出世するのは難しかったが、教員や軍人は実力主義だったので、沖縄の優秀な人たちは教員や軍人になった。
戦後の沖縄は軍国主義を嫌う米国が統治したので元軍人は政治の要職に就くことは敬遠された。だから、教員出身が政治の要職についたのである。
比嘉修平氏と屋良朝苗氏は貧しい農民の生まれでも教員になれた。実力主義であったから、元士族や資産家の子の多くは高等学校や大学に進学して本土で就職している。彼らは差別されていない。

大阪で差別されたのは貧しい農民で学校も行かず、教養のない人たちであった。
大阪に移住したのは大正区に住んでいる人たちだけではない。大阪に溶け込んでいる人たちもいた。彼らは教養のある人たちであった。同じ大阪に住んでいる沖縄出身者が大正区に住んでいる人たちを批判している。
「今少し積極的に大阪市民としての自覚の下に郷に入れては郷にしたがって貰い度い」
「現在の如く県人のみの密集形成では百害あって、一利なしであろう」
「特に密集生活を廃して,どんどん他県人の中に入って同化して貰い度い」
「住居は貧乏で狭くともいいから清潔に小締鮭にする事」

 大正区に住んでいる沖縄出身者は大阪市民としての自覚を持とうとしなかったことや、郷に入っても郷にしたがわない人たちであると教養ある沖縄出身者は指摘している。そして、沖縄出身者だけ集まって他県人との交流をする努力もしないことを批判しているのである。大正区に住んでいる沖縄出身者たちは大阪的な生活になじむことをしないで大正区で独自の沖縄村をつくっていったのである。
 
 大阪で済むのなら大阪人と話し、大阪の習慣を学ぶべきである。「郷に入らば壕に従え」である。しかし、大正区に住んだ沖縄出身者は大阪の言葉、習慣になじむことなく大阪に住んだのである。
 しかし、それは彼らの責任として彼らを非難できるものではない。もし、沖縄で共通語を徹底して教え、大阪で仕事をする時の心構え、生活の仕方を教育していれば大阪に移住した沖縄出身者は大阪の生活になじみ、大正区で沖縄出身だけの村をつくることはなかっただろう。
 沖縄農民の生活文化と大阪の生活文化は大きく違っていた。沖縄の農民は村ごとに自給自足の生活をしていた。私有財産はなく畑も山も持ち主は琉球王府であり、農民は琉球王府の所有する山畑を共有で使っていた。農民には財産の私有意識がなかった。
 一方江戸時代から商人の町として栄えてきた大阪は商売中心の社会であった。商品の売り買いが盛んであり、買ったものは自分の財産であるという私有財産の意識が発達していた。
 高度な教育を受けていない沖縄出身者には大阪を理解するのは困難であった。そんな彼らでも高度な経済発展をしている大阪だったから仕事にはありつけた。しかし、大阪の生活にはなじめなかったから沖縄独自の村社会をつくったのである。

   つづく
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