テルさんと沖縄教職員による教公二法阻止問題を語り合う



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テルさんと沖縄教職員による教公二法阻止問題を語り合う

 9月7日のチャンネル桜沖縄支局で教公二法阻止問題について金城テルさんと語り合った。テルさんは教公二法が阻止された時、立法院の外に居て一部始終を見ていた人である。
 教公二法阻止問題とは祖国復帰前の米国民政府統治時代であった1967年2月24日に立法院で教公二法を議決しようとしていたのを沖縄教職員会が十割年休をとって立法院に集まり、警備する警官をごぼう抜きにして立法院になだれ込んで。議場を占拠して教公二法の成立を阻止したことである。

教公二法とは
「地方教育区公務員法」
「教育公務員特例法」
の二つの法律である。本土では一九四九年(昭和二十四年)一月十二日にすでに成立している法律であった。日本が祖国であると主張し祖国復帰運動の先頭に立っていたのが沖縄教職員会である。であるならば本土で一二年前にすでに成立し、祖国復帰すれば即沖縄に適用される法律であるのだから容認するのが当然であるはずである。ところが沖縄教職員会は大反対し、教公二法の議決を阻止するために十割年休をとって学校の授業をほっぽりだしてまで立法院に押しかけ、議会を蹴散らせて立法を阻止したのである。
もともとこの二つの法律は年金制度、結核・産前産後の休暇など教職員の身分を保障するものだった。しかし、勤務評定、政治行為の制限、争議行為の禁止などが含まれていたため、沖縄教職員会では当初から一貫して反対していた。

 復帰前の沖縄は米軍が統治していたと思われているが、そうではない。米軍政府が統治していたのは米軍が上陸した時と沖縄のインフラ整備に集中していた終戦からの五年間であり、その後は米国政府の出先機関である米国民政府が統治していた。米国民政府は沖縄の民主化を進めた。
1952(昭和27)年に琉球政府が発足した。沖縄教職員が押しかけた立法院もその時に発足した。
立法院は名前の通り法律をつくる議会である。選挙権は20歳以上、被選挙権は25歳以上の「琉球住民」に与えられた。立法院の議員は31人で、全員が沖縄本島、離島の選挙で選ばれた議員たちであった。

 宣誓文
吾々は自由にして且つ民主的な選挙に基いて琉球住民の経済的政治的社会的福祉の増進という崇高な使命を達成すべく設立された琉球政府の名誉ある立法院の行使者として選任せられるに当たり琉球住民の信頼に応えるべく誠実且つ公正に其の職務に遂行することを厳粛に誓います。

一九五四年四月一日
 琉球政府立法院議員

 宣誓文には立法院議員全員の名前が書かれ、捺印が押されたが、一人の議員だけは捺印を押さなかった。議員の名前は瀬長亀次郎である。彼は、
「我々は民意を代表しているのであって対米協力のためではない」と言って、宣誓文捺印をしなかった。宣誓文捺印をしなかっただけでなく立法院を代表して宮城久栄氏が宣誓文を読み上げた時に全議員が脱帽して規律したが、瀬長氏一人は着席したままであった。
 皮肉なことに、瀬長氏が「民意を代表」していると主張した立法院に沖縄教職員は雪崩れ込み、暴力で「民意」を阻止したのである。

 金城テルさんは教公二法に堂々と賛成宣言をし、たった一人で沖教祖と闘った人である。彼女は政治家でもなければ政治活動家でもなかった。4人の生徒を持つ主婦であった。教公二法反対運動に熱中している教員たちは反対運動のために授業をしなかった。四人の子供を学校に通わしていたテルさんは主婦の立場から授業をほっぽりだす教員を批判し、教員は政治活動を止め、教育に取り組むべきであるという考えから教公二法に賛成した。そのことを堂々と発言して、教公二法反対派の教員たちと闘ったのである。
 
教公二法が阻止された1967年2月24日にテルさんは立法院の現場を見た。
「実際に見た人間でない限りあの時の恐ろしさは分からない」
とテルさんは言っている。
 テルさんの話では沖縄教職員会の教員たちは警官をごぼう抜きしただけでなく、警官の服をズタズタに引きちぎったという。沖教祖による立法院乱入を見たテルさんは、
「(左翼の)革命が起きた」
と思い、嘆き悲しんだという。沖縄教職員が立法院を取り巻いた時の写真である。



 沖縄教職員は十割年休を取り、ほとんどの教員が立法院を取り巻いたのである。そして、警官をごぼう抜きにして立法院に進入したのである。
 米国民政府が統治していた時代とはいえ、立法院は二十歳以上の沖縄住民の選挙で選ばれた議員による立法機関であった。沖縄教職員は民主的な議会を暴力で蹴散らして議決させなかったのである。それは民主主義の破壊行為である。民主主義破壊を沖縄では教育者たちがやったのである。これは沖縄史上いや日本史上の大きな汚点である。

9月7日のチャンネル桜沖縄支局で教公二法阻止問題について金城テルさんと語り合った映像である。

【沖縄の声】 [桜H29/9/8]


6年前の2011年12月09日に私はブログで「教公二法と八重山教科書問題」を掲載した。

 写真は1967年2月24日立法院を取り巻いている沖縄の教師たちである。大衆ではなく教師たちである。教公二法とは教師の政治活動を禁じたものであった。復帰前の沖縄は教師が政治活動を自由にできた。革新系の立候補者が学校の職員室にやってきて、支持を訴えて握手するのは見慣れた風景だった。 
政治活動をやりたい教職員たちは教公二法を阻止しようと立法院を取り巻いた。見ての通りものすごい人数である。


沈痛な面持ちでハンガーストライキをしている屋良朝苗氏は沖縄教職員会長であり、初代の公選選挙主席であり、初代沖縄県知事である。屋良氏は社会党や共産党系ではなく戦後の沖縄の教育に情熱を傾けた人である。「祖国復帰して本土並みの環境になれば沖縄の学力も本土並みになる」と信じていた人間であった。その信念で復帰前は沖縄の教育環境を改善するために全国を周って教育資金集めに尽力した。彼の努力で日本政府を動かし政府からの援助も実現した。

屋良氏たちのハンガーストライキの効果はなく、民主党(自民党系)は教公二法案の成立への手続きは進んでいった。危機を感じた教職員は十割年休闘争を決定して写真のように立法院を取り巻いた。そして、1967年2月24日、民主党が教公二法を採決しようとした時、教職員は警備している警察管をごぼう抜きにして立法院に突入して実力で教公二法の議決を阻止した。
教公二法阻止闘争は教職員の政治力の強さを証明した事件であった。
60~70年代の教員組織は沖縄の政治を主導した。あの頃活躍した若き教員たちが現在の定年退職したOBである。彼らはヘリパッド建設反対や辺野古基地建設反対運動に参加している。

USCAR(米国民政府)で分かる沖縄教職員の実態
USCAR文書とは、1950年12月から1972年5月まで米国政府の出先機関として沖縄にあった琉球列島米国民政府(United States Civil Administration of the Ryukyu Islands)が作成・収受した約350万枚におよぶ資料群である。
当時の新聞は教職員側の報道だけであり、警察や高等弁務官の話が報道されることはなかった。
 USCAR文書には教公二法阻止当時の民政官と警察本部長との対話や高等弁務官、松岡政保主席などの発言記録が残っている。その一部を沖縄紙が公開した。

警察本部長と民政官の対話記録

警察本部長=今朝三時に本部や名護あたりからも動員した警察官は五時三十分に到着しました。彼らは朝食も食事もとらず。休憩はおろか用を足す時間も与えられていません。立法院ビルの正面と裏に最大で約一万三千人のデモ隊がいました。デモ隊は次から次へと新しいグループを動員して波状攻撃で警官隊に襲い掛かりました。警官隊は今朝五時三十分から食事も取らずに立法院ビルを警備しています。そして、ついに十一時十分には、空腹と疲れからデモ隊に圧倒されてしまいました。(中略)
民政官=警官隊が武力を行使しないのはどうしてですか。
警察本部長=もし、警察官が武力に訴えれば、デモ隊も同じことをします。多勢に無勢で、われわれにはむしろ不利になるでしょう。(中略)
民政官=デモ隊を武装解除するのが警察でしょう。
警察本部長=そうすれば逮捕のために持ち場を離れなくてはならなくなり、逆に弱体化します。
星克議員=私たちは法案を通すために警察の力を借りなければなりませんでした。しかし、頼りにしていた警察は、先週、惨めなほどに崩れてしまいました。これは深刻な問題です。

アンガー高等弁務官は、教公二法問題は沖縄人同士のものであるという理由で、琉球政府からの米軍の直接介入要請を断っていた。そして、米側の治安部隊に対しては、法と秩序が完全に破壊し、米軍基地の機能を脅かさない限り介入しないように命令していた。
アンガー高等弁務官は民主党代表団に次のように述べている。

アンガー高等弁務官=どんなことがあってもこれら二法案を可決するというあなた方が立てた目標に賛同します。民主党のためでなく、沖縄における民主主義の存続がかかっています。これは根本的な問題です。教公二法案を可決することは沖縄における民主主義がかかっています。民主主義や多数決のルールに従うのか、それとも暴徒のルールに従うかです。教師の政治活動や子供への影響の問題も重要なことですが、より深刻なのは、果たしてこの島で民主主義が生き残れるかということです。

革新系政治家や知識人から沖縄を植民地支配をしていると言われている米国民政府のアンガー高等弁務官は「果たしてこの島で民主主義が生き残れるか」と述べて、教職員の運動を民主主義を破壊する存在とみなしている。そして、米国民政府は沖縄の民主主義を守る側にあると認識している。米国民政府が沖縄を民主主義社会にしようとしていたことが窺える。

アンガー高等弁務官は、対立が沖縄人同士であるという理由で琉球政府からの米軍の直接介入の要請を断っている。沖縄に三権分立の制度をつくったのは米民国政府である。主席は米民国政府が任命したが、米国民政府の統治下にありながら、米国民政府の指導で沖縄内は民主化が進んでいた。沖縄人同士は民主的な関係にしようとしていたのが米国民政府であった。しかし、沖縄教職員は民主化を拒み、立法院での議決を実力で阻止したのである。

松岡政保主席は教職員の力が絶大であり、琉球政府が手も足も出ないことを嘆いた。
松岡主席=現状を分析すると民主党政権はぐらついています。立法院の状況も同じです。例をあげると、琉球政府の教育局は教育行政に関してもはや指導力はありません。教育に関して指導しているのは教職員会です。

八重山教科書問題を冷静に考えれば、中学三年生の公民ひとつの教科書問題である。教科書は国が検定したものでありちっぽけな問題であるのに、沖教祖や教員OBや革新系知識人が育鵬社の教科書を採択したら軍国主義国家にもどるなどと妄想でしかない噂を振りまいて沖縄中を大騒ぎさせた。いや、沖縄中が大騒きしたというのは疑問だ。新聞と革新政治家や文化人が大騒ぎしただけかもしれない。

八重山教科書問題は教科書採択に重大な問題があるのではなく、1967年に警官隊さえ排除して教公二法の決議を阻止した教職員の絶大なる力が2011年でも健在であり、自分たちのテリトリーに侵入してきた育鵬社の教科書を排除しようと自分たちの組織を最大動員して多くの集会を開催したり、署名を集めたりして実力行使をしたということだ。そして、安倍政権に法律を変えさせた。

1967年、教職員たちの暴力で教公二法が阻止された。
米国民政府が統治していた1967年である。教員は十割年休を取り、教育を放り出して立法院に結集した。そして、警官をごぼう抜きにして議会に乗り込んで教公二法の議決を阻止した。教公二法とは教員の政治活動を禁止するものであり、本土ではすでに成立していた。政治活動を抑え込まれることを嫌った教員たちが立法院の議会になだれ込み、法案議決を阻止したのである。
キャンプ・シュワブに集まって辺野古飛行場建設に反対している人たちは1967年に教公二法を暴力で阻止した教員と同じ思想だ。キャンプ・シュワブに2万5000人の反対者を集めて実力で移設を阻止したいのだ。辺野古基地建設の反対派の幹部は「10000人集まれば阻止できる」とよく言う。
キャンプ・シュワブで教公二法阻止闘争の時のように工事を阻止できないのは単に人数が少ないだけである。彼らの思想は教公二法を阻止した時と同じである。2万5000人も集まればキャンプ・シュワブになだれ込みキャンプ・シュワブを占拠していただろう。
「教公二法と八重山教科書問題」

 教公二法を沖縄教職員は実力で阻止した。その大きな要素は教職員のほうが沖縄警察より実力があったことである。警察より実力が勝れば実力で阻止する。それが沖縄教職員組織であり、彼らの上に存在する共産党である。

2016年の7月22日に国頭村安波(高江ではない。高江としているのは政治効果の狙い)にヘリパッド建設することに反対している集団はN1ゲートに行く砂利トラックや機材を運ぶ車を阻止するために県道70号線封鎖作戦に出た。午前3時、反対派は南北約1キロに車160台余りを並べた。そして、すし詰め状態の車両の合間に人間が入った。また、道路や傾斜地の草むらにも座り込んだ。山城議長は「弱い市民の精いっぱいのゲリラ戦」と言ったが、それは山城議長の言う通りゲリラ戦であった。
 もし、沖縄県警だけであったなら集団を排除することはできなかっただろう。沖縄県警に160台の車と1000人のゲリラを排除する実力はなかった。沖縄県警だけであれば教公二法阻止の再現となっていた。県道70号線はヘリパット建設反対派集団に占拠されてヘリパット建設工事はストップしていただろう。本土から鍛え抜かれた500人の機動隊が派遣されたから排除できたのである。

 金城テルさんはキャンプ・シュワブの辺野古基地建設派のニュースを聞くと、左翼による「革命が起こった」と恐怖し絶望した1967年2月24日の教公二法が阻止された立法院のことが思い浮かぶという。あの頃の沖縄教職員の思想とキャンプ・シュワブの反対派の思想はちっとも変っていない同じだとテルさんは繰り返し話す。
 キャンプ・シュワブに集まる集団の多くは教員OBである。運動組織は共産党の統一連と社民党の平和運動センターである。キャンプ・シュワブの反対派集団の実態を見ればテルさんの言う通りであることが分かる。

 教公二法阻止をしたようにキャンプ・シュワブの彼らは民主主義の破壊集団である。
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