お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

玉砕とその後の息子たち (岩屋城合戦・高橋紹運)10

2010年04月08日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も泣ける籠城戦「岩屋城合戦」と「高橋紹運(たかはし・じょううん)」についてです。
ついに今回でラストになります。

九州統一に向け、怒涛の勢いで侵攻を開始する島津勢。
迎え撃つ岩屋城には「高橋紹運」、宝満城には「立花直次(高橋統増)」、そして立花城には「立花宗茂※写真」が籠城。
矛先は紹運へ向き、岩屋城は島津勢にぐるりと包囲されてしまったのです。

攻撃は七月十四日の午後から始まりました。
鉄砲の轟音が鳴り響き士卒のわめき声が大地に響くという激戦は、初戦の二日間だけで島津方に千という死傷者を出させているのです。
三日目には「高橋越前」の守る秋月口の砦を攻略されましたが、紹運の指揮する城はなおも強固に耐え続けていたのでした…。


二十二日。
島津勢に「上井覚兼」率いる宮崎衆が援軍として到着。
一時中断していた攻撃は、ここから本格的に再開したようです。
多くの犠牲がありつつも堀を埋め、塀を崩すなどして、ようやく二十六日には外郭(そとぐるわ)を破ったのでした。

それに続く二十七日。
島津勢の総攻撃は、午前六時から始まり、正午まで続いていました。
四方から攻めのぼった島津勢はおびただしい死傷者を出しながら、ついに紹運を本丸へと追い詰めます。

この際、岩屋城へ残っていたのは、紹運ほかわずか十七名ほど。
火を放つことを進言した家臣に対し、

首を取らせてこそ義をもって討ち死にしたことが分かる。
 死体が見えなければ、逃げたと思われるだろう。
 武士は屍を晒さぬというが、それは死に場所による。
 あえて首を取らせよ


そう言ったとされています。
ぎりぎりまでスゴイ人です。

城の扉に、
屍をば岩屋の苔に埋めてぞ 雲井の空に名をとどむべき
そう辞世を書きつけると、櫓へ昇った紹運は敵味方の見守る中で切腹して果てたのでした。
享年三十八。

島津勢の見守るなか、生き残っていた高橋勢も皆念仏を唱えながら切腹し、その後を追っています。
守護隊は一人残らず玉砕。
紹運の首は、島津の本陣へと運ばれました。

薩軍の死骸は将士二十七人、兵卒の死傷者実に五千三百人に及び、城兵七百六十三人は枕を並べて討死せしこと…

島津勢は岩屋城で半月という時間を費やし、また三千七百という戦死者を出したのでした


ここからは余談。 

次男「立花直次(高橋統増)」が守備する宝満城を計略によってまんまと開城せしめた島津勢は、続いて立花城に迫って開城を求めています。

これに対し、
”立花城は秀吉から預かった城なので、伺いを立てなければいけない”
そんな事を言って時間をかせぐ「立花宗茂」は、そのうちに以前の宿敵・毛利軍が豊前に上陸したことを知るのです。

八月二十三日の夜半。(岩屋城の落城から約一ヶ月後)
時間を費やした上、遊撃・奇襲を用いた宗茂勢に翻弄され続け、立花城の攻囲を諦めて撤退することとなった島津勢。
宗茂はこれを追撃。
大いに討ち取ったほか、なんと高鳥居城・岩屋城を奪還しているのでした。

なお、島津方に捕えられていた弟「高橋直次(高橋統増)」も後に救出。
慶長十九年(1614)に立花姓となった彼の家も残り、兄宗茂の子孫と共に筑後柳河藩、三池藩として存続するのでした。
いまだ紹運の命日には、墓前で追悼会が行われているそうです。



[関連記事] 【戦国武将大会 西日本】
⇒ 越前の英雄「朝倉宗滴」 [     
⇒ 伊賀流忍術の雄 「百地丹波」
⇒ 将軍 足利義輝 (京都・等持院)
⇒ 三好一族の末路 (三好家の人々) [        
⇒ 没落の名門家・山名氏 「山名祐豊・豊国」 [       
⇒ 尼子氏武闘集団「新宮党」
⇒ 固辞する嫡男「毛利隆元」 [  ]
⇒ 出来人の出来た弟 「香宗我部親泰」 [前編 後編
⇒ 毛利元就を欺いた大将「大友宗麟」 [     
⇒ 智勇兼備の勇将 雷神「立花道雪」 [前編 中編 後編 ]
⇒ 島津家筆頭家老・文武両道の名将 「伊集院忠棟」 [   



 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】

戦国武将ぴあ ゆかりの地と城をめぐる旅 (ぴあMOOK)

ぴあ

このアイテムの詳細を見る

※旅行にはこんなんが最適。
 でないと、ひでるさんのようにえらく遠回りすることになるかも。