建物をつくるとはどういうことか-1・・・・建「物」とは何か

2010-10-01 00:38:32 | 建物をつくるとは、どういうことか
◇「建物をつくる」とは、「物」をつくることではない、ということ

今、多くの方が、モニター上で図面を描き、プリンターで図化しているのではないでしょうか。
しかし、私たちの世代は手描きの時代。
トレーシングペーパー(以下トレペと記します)に鉛筆や墨で手描きで図を描き、それを「青焼き:青図」にするのが普通だった。今では、その場合でも電子コピーになり、「青焼き:青図」はまったく過去のもの。
それゆえ、「青焼き:青図」を知らない人の方が多いと思われます。

「青焼き:青図」は、簡単に言えば「日光写真」と同じ理屈。
印画紙にトレペを重ねて光の中を通して現像すると青色の地に描いた線が白抜きになって仕上がる。
これはきわめて保存性能が高く、日時が経っても線が消えてしまうということはありません。
下の図は、この表示法による前川自邸の平面図。青地ではなく、黒地にしてあります。



この「青図」も、青と白が逆転する「白図」と呼ばれる方式が生まれてきます。これは、現在の電子コピーやプリンターによる表示法、一般に書物に載る建築図面と同じです。
「白図」の場合は、白地に線が青で記されます。ただ、これは青図とは印画紙の薬剤が違い、保存性能はきわめて悪い。線が消えてしまう:退化してしまうのです。

この表示法で示した前川自邸の平面図が下の図です。普通、書籍などでは、この方式。



    図の描き方にもよりますが、一般には、
    青図式の表示法の方が、各室や庭などが、浮き上がって見えます。
    白図の場合は、区画するもの:壁など:の方が目に入りやすい。
    ゲシュタルト心理学でいうところの「地」と「図」の関係です。

こういう時代、ある方が、これは書物に載った図面を念頭に置いているのですが、
「白い部分をつくりだすために黒い(青い)部分がある」
という名言を残しています。
長い前説は、この名言を紹介するためのもの。

つまり、「白い部分」、いわゆる「室」に相当する部分は、「黒い部分」、つまり「壁」なり、「柱」なりがなければ生まれない、ということ。
そして、通常は、白い部分の上には屋根があり、外から見れば、外周と屋根からなる「立体」に見えます。この「立体」を、普通「建物」と呼んでいるわけです。

ただ、以前に紹介した中国西域の住居のような全体に被さる屋根:上蓋のない場合には、全体がそういう「分りやすい」立体物になっていませんから(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/96fa99810f1b340e57b5b01db1b38e7b)、「建物=箱」の見かたに慣れた人は、どれが「建物」なのか、ハタと困るわけです。
そして、そういう場合を、日本人の多くは、「建物」と計画的な「庭」からなるコートハウス形式などと呼びます。どうしても「建物」:上蓋の付いた「立体」:がないと合点がゆかないからなのでしょう。

この「建物=箱」は、当然ですが、かならず「形」を持ちます。
そこで、多くの人、特に建築設計に係わる人たちは、その「形づくり」を気に掛けます。
いわゆる「造形」です。そこで、建物づくり:建築も「造形芸術」の一つと見なされるわけです。
おそらく建物づくり:建築に一番近いと考えられるのが「彫刻」でしょう(「現代芸術」でいうインスタレーションなども含みます)。実際、そのように考えて設計しているのではないか、と思われる建築家もいます。

では、
建物づくり:建築を、そういう「造形芸術」と同一の類に括ることはできるのでしょうか?
括るのは根本的に誤りである、と私は考えます。
それゆえ、建物づくりについて、「そのような意味での造形」面から論じたり考えたりすることも誤りである、と考えます(昨今の「建築評論」には、こういうのが意外と多い)。
理由は簡単です。
いわゆる「造形芸術」は、気に入らなければ近付かなければいいし、何なら「押入れにしまって」しまえばいい。
しかし、
建物づくりの「造形」の場合は、私たちは、否が応でも、それに付き合わなければならないのです。気に入らないからと言って、「押入れにしまう」ことができない。
なぜなら、建物づくりでつくられるものは、
それがたとえ特定個人に係わるものであっても、かならず「不特定多数の人びとが係わらざるを得ない」ものになってしまう、
というのが厳然たる事実だからです。
簡単に言えば、個人のものであっても、かならず他人の目に触れるものになってしまう、ということです。

だから、「他人の目」「他人のこと」を考えてない建物づくりは、得てして、不愉快な気分に人を落し込みます。

もちろん、このときの「他人の目」「他人のこと」とは、《芸術鑑賞》者のそれを言っているのではなく、「日常を暮している人の目、人のこと」です。
簡単に言えば、「見たくもない人まで、無理やり見なければならない」というのは、あってはならないのです。

   註 昨今生まれる家並み、町並みが、かつてのそれに比べ馴染めない理由はそこにあります。


さて、仮に「外形」の立体:「建物」:を認めたとしましょう。

問題は、その先です。
この「外形」すなわち「建物」と、内包されている「白い部分」とが、
どのような関係の下で成立しているのか、
あるいは
まったく関係ないお互い独立の事象なのか、
という点についての考察です。
   註 最近は、どうやら、まったく関係ないお互い独立の事象、という考え方が主流のようです。 

そのとき、全体に上蓋が被さらない中国西域の住居がヒントを与えてくれます。
すなわち、
「建物をつくる」ことをして、「建『物』をつくる」、つまり「上蓋のある立体物:箱をつくる」こと、と理解してはいけないのです。
「上蓋があるか否か」つまり「箱」になっているかどうかは、「建物をつくる」こととは関係がない、ということを、中国西域の住居の例は示しています。
あるいは、「建物をつくる」ことをして「建『物』をつくる」という「解釈」では、少なくとも、中国西域の住居の例を、それが住居であるにも拘らず、説明することができません。

「住居」というものを理解するのに、いくつもの「解釈」法がなければならない、というのは、どう考えてもおかしいのです。

   註 でも、建築に係わる方がたは、意外とそういうのがお好きのようです。
      たとえば、
      往年の日本の建物づくりを解釈できない「理論」をつくる、などは、
      その最たるものでしょう。

では、
「建物をつくる」とは、どういうことなのか。

そのことを、先の「名言」は明快に語っています。
すなわち、「白い部分をつくりだす」こと、それが建物をつくることにほかならないのです。

では、「白い部分」とは何だ。

これが次の問題です。

この、建物づくりで最大にして根源的な問題について、これまでも散発的には書いてきましたが(一例:下註)、次回、その点に「集中して」私の考えを書くことにします。

   註 ここに書いた「黒い部分、白い部分」については、
      ライトの「落水荘」を題材に下記でも書いています。
      ただ、「白い部分とは何だ」という点については、詳しく迫っていません。
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ca8d0d32d8257caa77e34e53f37acf60

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1 コメント

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考えるスペース (下河敏彦)
2010-10-01 23:04:52
私は青焼きを使った事があります。但し、地形図のコピーなので、自らの図を青焼きに起こした経験はありません。でも、青焼きは今考えると便利でした。あらゆる色鉛筆を引き立たせてくれるし、そして消しやすい。あの独特のジアゾのにおいは、”若者よ考えよ”と言われているようでした。

さて、白い部分はなにかといわれると、その形はある意図をもってデザインされた”黒い部分”に規定されるスペース。スペースに状況の打開を求めるのはサッカー選手のように、図面を描くのは楽しいということを教えてくれるスペースといえるかも知れません。
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