◇「見えている」ものは、「すべて知らなければならない」か?
先回、「明日香のような山あいの地に居住した人びとが、平地へ、徐(おもむろ)に、怖ず怖ず(おずおず)と出てゆく、その『展開』はどのようにして可能になってゆくか」、この点について次回考える、と書きました。
そのためには、その前段で、「ある重要なこと」を認めておく必要があります。
おそらく、このことの説明だけで今回は終わってしまうでしょう。
この「ある重要なことを認めておく」作業のために、いろいろなところで、いつも引用してきたのが、臼井吉見氏の随筆集「残雪抄」(筑摩書房 1976年刊)にある一文「幼き日の山やま」の冒頭の次の一節です。
読みやすいように、段落は変えてあります。
・・・
宇野浩二に「山恋ひ」という中篇小説がある。諏訪芸者と、作者とおぼしき主人公との古風な恋物語である。
この主人公が、諏訪の宿屋の窓から、あたりの山々を眺める場面が小説のはじめに出てくる。
湖水の西ぞら、低くつづく山なみの上から、あたまだけのぞかせている一万尺前後と思われるのを指して、
あの高いのは何という山かね?ときかれた番頭は、
さあ?と首をかしげる恰好をして、たしかに高い山のようですが、名前は存知ませんという。
木曾の御嶽ではないのかねとかさねて訊くと、さあ、そうかもしれませんね、ともう一度首をひねってみせる。
君はこのごろどこかよそから来たのかね?と問うと、
いいえ、私はこの町の生れの者でございます、と答えて、気の毒そうな顔つきをするのである。
この小説の書かれたのは大正の中頃だが、当時の読者だって、この番頭変ってると思ったにちがいない。
いまの読者なら、なおさらのことだ。
・・・
註 「諏訪」とは「諏訪湖」。客は、湖の北岸にある温泉街に泊っている。
臼井吉見を知っている方は、もう数少ないのかもしれません。
長野県安曇野の出身の評論家・作家。1905年~1987年。
筑摩書房から出されていた雑誌「展望」の編集長を長らく務めた。
晩年の小説「安曇野」は、
明治末~昭和初頭にかけての近代日本の「文化界」の状況を描いた作品。
参考のために、下に一帯の地図を載せます(平凡社「常用 日本地図帳」1985年版より編集)。
右手の四角で囲んだのが「諏訪湖」(湖面の標高は759m)、左下の赤い円で囲んだのが「御嶽山(おんたけさん)」(標高3063m)です。
「諏訪湖」と「御嶽山」は直線で約60km離れています。
「御嶽山」の北には「乗鞍岳」から「北アルプス」が、東には「中央アルプス」「南アルプス」が「木曾谷」「伊那谷」を挟んで並列、「諏訪湖」の北東に「蓼科山系」、東に「八ヶ岳」があります。
「北アルプス」「御嶽山」「中央アルプス」「南アルプス」「八ヶ岳」は標高約3000m前後、「蓼科山系」は2000m程度、より近く「諏訪湖」を囲む山々は高くても1000~1500m以下です。
この一文は、いろいろのことを考えさせてくれます。
先ず、この「客」も「番頭」も、「御嶽」を「知っていた」という点では同じです。
ところが、多分東京から来たと思われる「客」は、
信州の人間ならば信州の山である「御嶽」がどれか指し示すことができて当たり前である、と思っているのに対して、
同じ信州でも諏訪の生まれの「番頭」は、名前は知っていても、どの山がそれかは知らなかった。
つまり、知っているのは、ともに「御嶽」という「名」だけ。
東京の人間・客は「信州の人間は指し示して当たり前」と思っているが、「諏訪の人間は、指し示すことができなくて当たり前」と思っている。
著者は、「この小説の書かれたのは大正の中頃だが、当時の読者だって、この番頭変ってると思ったにちがいない。いまの読者なら、なおさらのことだ。」と書いていますが、現在なら、大半の人がそう思うでしょう。
それどころか、現在なら、地元生まれの番頭は、訊かれなくても、あれは何々山、これは・・・、と《案内》にこれ努めるに違いありません。それが《サービス》と思い込んで・・・。
考えてみれば、あるいは、考えるまでもなく、ここに出てくる「地元生まれの番頭」こそが、「人間本来の姿」なのだ、と私は考えます。
ある頃から、人は「目に見えている」ものすべてを知らなければならない、かのように思い込まされるようになった、と私は思っています。
臼井吉見氏の書かれているところによれば、大正頃からそういう「風潮」が、特に「都会」の「一部の人びと」の間から、生まれてきた。簡単に言えば、《知識》の「収集」が「教養」と思われ始めた。
註 唐木順三氏が「教養ということ」というエッセイで、
「教養」も「文化」も英語にすれば culture になるが、
「教養」という語は culture の語源であるところの
cultivate という意からは遠い、という趣旨のことを書かれています。
だから、「近代文化人」の「教養」は、得てして、
西欧と日本を含む東洋の「知識」の「理」のないごった煮である・・・とも。
要は、「自ら培った知識ではない」「身に付いたものではない」ということ。
このエッセイも「現代史への試み」(筑摩書房「筑摩叢書」1963年刊)に載っています。
現代人は、おそらく、この頃の「風潮」を、さらに増幅して継承している、と言ってよいのではないでしょうか。
「たくさんの《知識》を集めることをもってよしとする」、それで「ものごとが分った、と思ってしまう」風潮・・・。
では、なぜ「番頭」は、
「御嶽」という山があることは知っているのに、
そして、
「目に見えている山々」の中に「それ」が在るのに、指し示すことができなかったのでしょうか。
この答は、きわめて簡単。
「番頭」は、「その山に関心がなかった」からです。
「番頭」にしてみれば、目に見えている高い山ではあるけれども、高いからと言って、目立っているからと言って、そして、「世に有名な」山であるからと言って、「関心をもたなければならない理由がない」ということです。
では、なぜ関心がないか。
臼井吉見氏は、先のエッセイの後半で、次のように記しています。すなわち、それが「答」。
・・・
信濃のように、まわりを幾重にも山に囲まれている国では、この番頭のようなのは、
当時としては決して珍しくはなかった。むしろ、あたりまえだったといってよい。
生まれたときから、里近くの山に特別に深く馴染んでいるので、
奥の高い山などには、とんと無関心で過ごしてしまうのが普通だった。
わらびを採り、うさぎを追い、きのこを探し、すがれ蜂を釣ったのは、みんな里近い山でだった。
近くの山なら、松茸は、どこどこの松の根もとだとか、うさぎの道は、どこそこの藪かげだとか、
知識経験の豊富な蓄積があった。
おとなたちが、木を伐り、薪を集め、炭を焼くのも、これまた近くの山だった。
・・・
註 もしかすると、ここで書かれている「里近くの山」が、
最近流行の言葉の「里山」だ、と思われる方がおられるかもしれません。
しかし、「里山」という語は新造語です。「広辞苑」でも、初期の版には載っていません。
「新明解国語辞典」には、最新版にも載ってない。新語なのです。
流行の「里山」は、単に、人の暮す場所の近くに在る山、というような意味と言えばよいかもしれません。
この一文が描いているような形で、近くに暮す人びとの暮しに直接結びついているわけではないのです。
要は、単なる(都会住まいの人たちが)「賞味するための」山、林・・・なのです。
(都会住まいの人たちが)関心を持つようになったのは、自分たちを「慰めてくれる」近くの山や森や林が、
「荒れてきた」ことに始まります。
しかし、「荒れてきた」というのは、きわめて勝手な「言い草」です。
山や森や林は、(都会住まいの人たちの)慰めのために在るのでしょうか。
その山や森や林が「荒れてきた」のは、自然の破壊なのでしょうか?
1970年代頃だったと思いますが、埼玉の「野火止(のびどめ)」にあった「雑木林」が、
「宅地開発」によって消えかけたとき、その「保存運動」が起きました。
「運動」の結果、「手をつけてはならないという保護条例」の下で保存されることになった。
どうなったでしょう?「雑木林」ではなくなってしまったのです。
「雑木林」はなぜ「雑木林」という形態であったのか、ということを忘れていたのです。
「雑木林」は、毎年、人が手をつけていたから「雑木林」の形になった。
なぜ「手をつけたか」。暮しのための「燃料」として。狭義の「自然破壊」の結果なのです。
ただし、「手のつけ方」が、木の成長の理に即していた。そこが、単なる破壊ではなかった。
今の単なる「自然保護」とは違うのです。
「自然保護」とは、「自分の好みに合うように状況を維持すること」ではないはずです。
今、「里山」を「復活させよう」という「運動」が各地で行なわれているようです。
私は疑問を持っています。
そのために、「わざわざ」山へ出向き、下草を刈る。それは、その人びとの暮しとは無関係。
多分、長続きしないでしょう。
私は、そのまま、「なるようになればよい」のだ、と思っています。
樹木には各種の蔦がからみ(たしか「縁辺植物」と呼んだと思います)、
人の入れないような姿になるでしょう。
私の暮している所に接して、昔の柿や栗の果樹園があります。もう10年以上、手を入れていません。
ゆえに「荒れて」います。
蔦がからみ、鳥がもってくるのでしょう、いろいろな実生の樹木が増えつつあります。ジャングルです。
しかし、それこそが「自然」の姿なのです。それを「荒れた」というのは、人間の「身勝手」。
おそらく、林相は姿を変えるでしょう。そうして、原始の姿に戻るのです。それが自然というもの。
私はそう思っています。「里山」などと、軽々しく言わないでほしい・・・。
第一、自分の住んでいる場所自体が、「壮大な破壊の結果」なのです。
日本の山が荒れていると言われます。
木材の利用が減ったため手入れがされなくなったからだ、だから国産材の利用促進・・・。
放置しておいたらどうなるか。山が荒れますか?
いいえ、この日本という環境では、
山は、自然の理に即して、長い時間をかけてではありますが、原始の姿に戻るだけです。
皮肉な言い方をすれば、それが最大の自然保護かもしれません。
ところで、先の一文にある子どもたちの行動、それは、親たちの行動、つまり「暮し」があったからこそ生じたのだと考えなければならないはずです。
子どもたちは、特に昔の子どもたちは、「冒険」をしました。しかしそれは、親の行動、行動範囲を知っての上での「冒険」なのです。
そして今、私たちは、地図などで、多くの「地名」を知っています。
そして、「地名を知った」ことで、その地を「分った」気になることが多いはずです。
ここでもう一度、引用した一文に戻ります。
そこに、「木曾の御嶽ではないのかね」という客の問があります。なぜ「木曾の」という修飾語があるか。
それは、各地に「御嶽」と呼ばれる、あるいは標記する山が多数あるからなのです。
たとえば、奥多摩の「御嶽」。これは「みたけ」と呼びます。諏訪の近くでは、南アルプスの「北岳」も「御嶽」。これは「おんたけ」と呼ばれます。ほかにも全国にあります。だから、「木曾の」という修飾語が要るのです。
しかし、「木曾の御嶽」の地元では、「木曾の」は不要です。
「御嶽」とは、まさに字の通り、その山への「尊称」です。木曾の地域に暮す人びとにとって、その山は畏敬の対象、信仰の対象になっていた。ほかの地域の人たちがどのように思うかなどは関係がない。それで「御嶽」で済んだのです。
註 会津・磐梯山の場合の「会津」は、磐梯山があちこちにあるからではありません。
地元では当然「磐梯山」だけで通じる。
民謡の「会津磐梯山」は、元は越後の民謡の系譜と言います。
そのため「地域」を明示したのではないでしょうか。
しかし今は全国の地図がある。そこには山の名も含め、「地名」が載る。それをもって人びとはその名が「普遍的」「絶対」のものと思っています。
そしてさらに、それを「知る」ことは、その地を「知る」ことであるかのように思い込んでいるようにも見えます。
流行の「ご当地検定」などはまさにそれです。
その地についてのいろいろの《知識》を知っていることが、その地を「分っている」ことであるかに思い込んでしまう・・・。
この「常識」を覆す一文、これも何度も、いたるところで引用する一文がありますが(
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/49fc6e8dc23d63eb552d4402916e96eaの文中でも引用しています)、ここでも再掲します。
農業経済学を専門とする玉城 哲(たまき・あきら)氏のエッセイ「水紀行」(日本経済評論社 1981年刊)の中にある「松の木川」という一文の一節。
なお、同氏と旗手勲氏の共著「風土―大地と人間の歴史」(平凡社 平凡社選書 1974年刊)も名著です。
・・・
冷害の青森県上北(かみきた)地方をあるいていたとき・・・《田舎のバス》はそのうち橋にさしかかった。
橋のたもとに「一級河川・相坂川」という看板がでている。・・・建設省が掲げたものである。
相坂川といっても、ほとんどの人はどんな川か知らないであろう。
私も・・・あの有名な奥入瀬川が「相坂川」であるとはまったく知らなかった。
そこで、私もいささかいたずら心をおこして、隣りのおばあさんにきいてみた。
「おばあさん、この川の名前知っているかね」
「おら知らねえな、よその人はオイラとかいうがな」
たぶん、そんなような返事だったと思う。私はいささか唖然として、思わずききかえした。
「おばあさん、川の名前知らないのかね」
「川の名前など、おら知らねえ、松の木があれば松の木川だ」
そのときうけた私のショックを、ここで表現することは容易ではない。
私はしばらく、何と言ってよいかわからないまま、まったく沈黙に陥り、車窓の風景を眺めるだけであった。
私たちは気軽に、地図に書いてあるからということで、利根川とか、淀川とか、木曽川などといっている。
そして、それが地元で何と呼ばれているかなどということなど考えてみもしない。
ところが、それはしばしば地元の人びとにとってはよそ者のいい方なのかもしれないのである。
・・・
考えてみれば、ある「もの」に名前が付けられるのは、
そこに生きる人びとにとって、その「もの」が「暮す上での必然」であるからなのであり、
それは地図の作成者が地名を地図に書き込むのとは、まったく異なる、
ということを、この玉城氏の一文は示してくれているのです。
そうであるのに、今、私たちは、地図の地名を知って、知った気になってしまう・・・。
註 明治になって、軍事目的で、陸軍の陸地測量部が全国の地図作成に努めます。
最近映画で話題になったのは、その一端です。
明治20年には、「迅速図」の名で公刊されています。
そのとき地図に載せられた「地名」は、たとえば北アルプス一帯の地名では、
測量隊が先に測量した側での呼び名が地図上の「地名」になったと言われています。
同じ山の呼び名が、向こうとこちらで異なっているのに(それで当たり前)、
地図では測量隊の「先着順」で一つに絞ってしまった、つまり、
早く測量が終わった側の測量隊が採集した「名」が付けられた、ということです。
この一文の例は、戦後、当時の建設省が、川を「水系」として「整理」し、そのときに付けた例。
なお、谷川健一編「地名の話」(平凡社選書)には、
各界の方が書かれた「地名」についての興味深い話が載っています。
先回、「・・・カーナビはGPSなどにより、いわば他人がつくる地図。簡単に言えば、『余計なもの』まで入っている。私たちが自分の中に描く『地図』には、『必要なもの』だけ入っている。・・・」と書きました。
この一文に出てくる「おばあさん」は、まさにそれを「地で行っている」のです。
「相坂川」という《公式名》は知らなくても、「おばあさん」は、その川の「素性」については、よく分っているはずです。なぜなら、その川とともに暮してきているからです。
《公式名》を知っているからと言って、何が「分り」ますか?
むしろそれは「余計な夾雑物」。知らなくたって何の問題もない。
あるいは、それを「知る」ヒマがあるのなら、もっと他の「必要なこと」を「知る」「分る」ことに努めるべきではないか・・・。《公式名》を「知る」のは、それからでも遅くない。
さて、延々と書いてきました。
私たちは、いつの間にか、、あるものごとに係わるいろいろな《知識》を集めることをもって、そのものごとが「分る」のだ、とのように思い込むようになっている気配があります。おそらくそれが「近代」というものだったのかもしれません。
その結果、これもいつの間にか、私たちは、ものごとを、私たち自らの目をもって、私たちの「必要に応じて見る」ことを忘れてしまっているように思えるのです。
別の言い方をすれば、私たちが、私たちが本来持っている「感性」で、直にものごとを見ることよりも、《知識》をいろいろと集めることを優位に置くようになってしまった、ということです。
しかし、考えるまでもなく、いろいろな《知識》というものも、誰かの「感性」により得られたもののはずです。彼の「感性」が、私たち個々の「感性」よりも絶対にすぐれている、ということはあり得ません。
本来「知識」というものは、「私たち個々の感性」によって淘汰されることによって磨かれるものであり、そのためには、私たちは《知識》を鵜呑みにしてはならないのです。
冒頭に「明日香のような山あいの地に居住した人びとが、平地へ、徐に、怖ず怖ずと出てゆく。その『展開』はどのようにして可能になってゆくか」、その過程を考えるには、「ある重要なことを認めておく」必要があると書いたのは、この「事実」を認めること、
つまり、私たちもまた、「諏訪の番頭」、あるいは「松の木川のおばあさん」の立ち位置に返らなければならない、ということです。
その立ち位置に立ってはじめて、「その過程」を考えることができるのだ、と私は思っています。
また長くなりました。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。