建物をつくるとはどういうことか-10・・・・失われてしまった「作法」

2010-12-17 18:38:12 | 建物をつくるとは、どういうことか
[註記追加 18日 8.00][文言追加 18日 8.19][文言改訂・追加 18日 10.32][文言改訂 18日 19.07、20日 7.16][誤字訂正 1月5日 14.48]

先回、農業者集落、商業者集落・・など、その原初的な「集落」の諸相について見てきました。
人びとが、それぞれの暮らしに応じて「適地」を選んで「定住」し、それぞれの仕事・業種を越えて交流する、その拠点が「集落」であった、と言えるでしょう。[文言改訂 18日 19.07]
そして、この場合の「人びと」は、「任意に集まった人びと」ではなく、「その場所で暮すことに意義を認めている人びと」の筈だ、とも書きました。「意義」は「必要」と置き換えた方が分りやすいかも知れません。

通常、「村」「町」・・も、「聚落」「集落」の概念に含まれる、とされてきましたが、現在の都会の「町」をもこの概念に位置付けるのには躊躇いがある、とも書きました。
「互いに無関係だ」と思い(思い込み)、「たまたま集まったにすぎない」と思っている人びとが暮している一帯を、「聚落」「集落」概念に含めることができるのか、含めていいのか、ということです。

なぜなら、「今風な町の姿」を見慣れてしまうと、それが「本来の町の姿」だという「思い込み」が生じてもおかしくないからです。
さらに、一番気になるのは、建築の設計や都市の計画に係わる方がたが、そのあたりを十分に認識・理解しているように「思えない」からなのです。それでいて「町」の話をしている・・・。

   世の中に「筋かい」を入れる木造建物が増えた結果、
   それが、木造建築の唯一・絶対の姿であるかの「思い込み」が《常識》になった。
   「町」についても、同じ現象が起きているのではないでしょうか。
   
下の航空写真は google earth の筑波研究学園都市の開発地区と非開発地の接点部分を撮ったもの。
撮影は比較的最近、2007年4月。筑波新線(通称TX)開通の2年後。写真に付いている経度・緯度は消しました。   



写真のAと記した場所は、この一帯に点在していたかつての農村集落の姿をとどめている既存の集落の一部。

   学園都市の開発地域で、消失した集落はありません。
   学園都市の開発地域内は、飲み水:井戸に恵まれず、集落は生まれなかった。
   第二次大戦後、入植が試みられましたが、撤退しています。
   開発地域は主に山林や畑地。水田も変りはありません。ただ、田の水質は悪くなった・・。

Bは、開発によってつくられた公務員宿舎群。緑色の屋根は(緑色は、陸屋根のシート防水の色)、大半が二階建ての連続住戸。
Cは、元は樹林や畑地だったところで、かなり初期に、開発地の隣接地につくられた新興住宅。と言ってもほとんどが二階建ての小世帯向けの共同住宅。
そしてD。ここは、元はBの続きの公務員宿舎があった場所。[誤字訂正 1月5日 14.48]
筑波新線開業にともない、居住者が減ったため取り壊され、跡地を民間に転売。そこに新たに建った二階建ての分譲戸建て住宅。一戸あたりの敷地はおよそ150㎡。
《筑波新線効果》で地価が上がったので、このくらいにしないと採算が合わなかったからだそうです。

   筑波新線の開業以来、筑波研究学園都市の当初の「ベッドタウンにはしない」という「理念」は破綻しました。
   沿線は、日本の「常識的、現代的」開発がされ、駅前には東京と間違いそうな高層集合住宅の群れ。
   研究学園都市の研究機関に勤める方がたにも、この「都市」に住まない人が増えた。
   そこで、多くの宿舎群が民間に売却されたのです。 


そこで、A、B、そしてDについて、その地への「定着のしかた」を比較してみたいと思います。

Aは、先回触れた一般的な農村集落と構え方は同じです。そのクローズアップが下の写真。



全景の写真で分るように、ここは、西北から東南に流れる霞ヶ浦にそそぐ小河川のつくった低地へ下る緩やかな東~南向き斜面。低地は水田(この写真は圃場整備後の姿。かつては、小川が蛇行していた)。
樹林のあるあたりが台地の最高所。
緩斜面のやや高い位置にある「屋敷」は高所の樹林を背に、東~南に向いて、
川に近い場所では北~東に樹林を残し、やはり東~南に向いて構えているのが分ります。
これは、台地上を吹き抜ける北西風や、川沿いに吹いて来る風を避けるためと考えられます。
樹林はいずれも現在は人工林ですが、当初は台地一面が原生の樹林:混交林だったでしょう。
そういったところに屋敷を構え、そのまわりの台地の樹林を切り開き畑地とし、河川沿いの田んぼで耕作を営んだのです(この地域では、近くても耕作向きではないところが多くあった)。そして、江戸時代初期には、村の形が定まっていたようです。

   先回紹介した集落の墓地には、元禄の年号の入った墓誌がありました。
   ここは、それよりも新しいようです。

   ここまで集落の紹介はしましたが、農耕の内容を触れていませんでしたので、あらためて紹介します。

   細谷益見という方が著された「茨城県町村沿革史」という書が出版されています。
   自身の資料として編纂したものが明治30年に篤志家の手で刊行されていて、
   昭和51年(1976年)に地元の出版社:崙(ろん)書房が復刻(影印版:写真による復刻でしょう)。

   それによると、この地域の物産は、米・麦を主、その他大豆、茶、藍、綿、繭(養蚕)、煙草などとあり、
   各集落で産品は異なり、自家の用を越えた分は、外へ出荷していました。
   それを扱ったのが、先回触れた交通の要衝に定着した近在の商業者たち。

    註 この地域の鉄道について
       水戸線 小山~水戸 1889年(明治22年)全通
       常磐線 田端~友部 1896年(明治29年)全通
       したがって、明治30年には、地域の南北に鉄道があった。
       しかし、一般の利用は当時は少なかったと思われる。
       この書の記述内容は、江戸末~明治初期の状況だろう。[註記追加 18日 8.00]

   現在でも、ところどころに茶畑も残り(もっぱら自家用のようです、今が花時)、
   放置された桑畑(これが桑?と目を疑うような大きさにまで成長しています)、
   煙草の乾燥小屋も残存しています。
   どの集落の近在にも、自家用の薪炭のための山林がありました。その姿が「雑木林」。
   薪炭を特産としていた地区もあります(水運で江戸へ送っていた)。
   薪炭が不要な時代になり、薪炭林は元の混交林に戻りつつあります。
   今「里山」という新語で呼ばれているのが、主にこの薪炭林。
   地域の暮しがつくりだした人工風景で、「自然」の風景ではありません。
   薪炭の需要が減り樹林は「元の姿」に戻りつつあります。「荒れた」のではない。

屋敷の大きさは、小さくても一戸当たり1500㎡はあると思われます。Dの戸建て住戸の10倍以上はあります。

先回の農家の屋敷の解説では触れませんでしたが、
「屋敷」には、「母屋(おもや)」、「離れ(隠居)」、「までや」(この地の呼び方で納屋:までる=片づける)、そして各種の小屋(木小屋、農具小屋、資材小屋・・・)が構えられます。
「母屋(おもや)」と「離れ(隠居)」は平屋建て。
一般に「隠居」は「母屋」の半分より小さく、八畳二間程度に便所が付く。
「母屋」に当主一家、「隠居」に先代の当主夫妻が暮す。
このパターンを代々繰り返す。「屋敷」は「二世代住居」になっているわけです。

「までや」は二階建てが普通で、前面に吹き放しの1間~1間幅の「下屋」が付くつくり。
「下屋」は一方~二方に付く典型的な「上屋・下屋」形式。「上屋」部分が土蔵造になっている場合もあります。
「までや」には、比較的「重要な」ものを納めていたようです。
しかし最近では、その2階部分を、母屋の子どもが自分たちの部屋にしたり、子ども夫婦の住居にする例も増えています(そうなると三世代居住です)。
1階は、たいてい農作業をしたり、農機具が置かれていたりします。

どの「母屋」でも、その正面に玄関があります。南向きの家なら南に、東向きの家なら東に付きます。
これは、かつての大半の武家の住宅と同じ。道が北側にある場合でも、わざわざ南に回り込んで玄関があるのが普通のようです(以前に紹介した裏側:北面に玄関のある長野・松代の武家住宅「横田家」は、異例かもしれません)。
   私の住まいは、そういう集落の中で、北側が玄関。珍しがられたようです。

では、Bでは住戸はどのように構えられているのでしょうか。下がそのクローズアップ。



部分の写真では分りにくいですが、全景の写真で、緑色の屋根の一帯の中央を、左下(南西)から右上(北西)に走る樹林の帯があります。これは、歩行者専用の道です。
この左下にさらにしばらく行くと、バス停とショッピングセンター。そこから伸びてきて、その全長は約1kmほど。
   
各住戸の玄関へは、この歩道から通じます。
先の斜めの歩道に直交して櫛の歯型にやや細めの樹林の帯が見えますが、それが各戸の玄関に至る歩行者用の道です。

この地域では車は不可欠。公共交通機関:バスを使うと、時間がかかる。
車ではどうやって各戸に近づくか。
この緑色の屋根の住宅地を囲んで舗装道路があります。それに直交して、先の細めの樹林の帯と交互に平行している樹林の少ない細い道が見えます。これが各戸への車の専用道。

つまり、歩く場合と車を使う場合では、住まいの出入りが原則別ルートなのです。

これは、筑波研究学園都市の開発計画の《理念》の一つ、《歩車分離原則》に則ったもの。

   この《歩車分離原則》は、大半の公共的施設にも「適用」されているため、多くの混乱を来しました。
   多分、今も後遺症があるのではないでしょうか。
   建物には、必ず歩・車それぞれ専用の出入口が必要。
   「計画主導者」から「歩」を優先することが求められ、歩道側が表口になる。
   ところが、多くの人は、来客も含め、この町では車を使う。
   そこで、人は常に、裏口、非常口のような玄関から入るハメになる。

だから、この住居から外へ出るには、車か歩きかで、出向く方向が違うのです。
車で出かけるとき、すべてがそうではありませんが、極端な場合は玄関を出て目の前に歩道を見ながら住戸の裏側へ向うことになります。
歩いて出かけるときは、違和感はありませんが、この歩行者専用道を歩くのは、人さまの庭先を過ぎることになるため、気分はよくありません。
専用歩道は、幅は樹林帯を含めると結構幅があるのですが、そこから各住戸までの距離がない。
この構想の源は、欧米の都市郊外住宅地の道から各戸までの間に芝生が広がるイメージだと思われますが、欧米のそれに比べると、圧倒的に「幅」「距離」が足りない。それゆえ、人さまの目と鼻の先を過ぎる恰好になってしまうのです。
ここを歩くのを嫌って、わざわざ街区のまわりの車道に出て、そこの歩道を歩く人が結構います。たしかに気分はいい。第一、見通しがきいて分りやすい(学園都市の歩行者専用道は、いろいろと《デザイン》されているため、分りにくい)。

何十台、何百台という車が往き来する道ならともかく、この程度の車の往来に対して歩車分離をする、という「発想」は、どう考えても腑に落ちません。
この地域では、今や車は生活の必需品。車で動くことは「悪」ではない。
農家の屋敷に行けば、屋敷内には車が3台から5台は並んでいて、いずれも、堂々と「正面」から屋敷に入ります。何の不都合もない(屋敷は、これらがとまっても問題のない広さがある)。Bの住戸に暮す人たちも、車は必需品。車2台が多い。しかし駐車場がない・・・。

この住宅地の「構想」者には、「住まいとは何か」、という根本的な問いが欠けていたのではないか、と私には思えます。  
写真を見ると、各建物が、道路(車道、歩道とも)に対して、微妙に角度が触れています。
これはなぜなのか。
一つは、なるべく南向きにすること、もう一つは、道に平行では「単調だ」、ということではないか。それ以外の理由は、私には見つからない。

新聞や折込広告の、建売り住宅あるいは分譲宅地の広告で、「物件」の説明として記されるのは、所在地、面積、部屋数、価格、最寄り駅までの距離(時間で示す場合もある)、法的規制、上下水道の有無、周辺公共施設、商業施設等の状況・・・。時には、日当たりのよしあし、平坦・・・などが特記されています。
実は、先の「構想者」の考えている「要件」は、これと大差ないのです。
「住まい」は、このような「条件」を充たせばよいのだ、これが人びとが「住まい」に求める要件だ、と考えられている、ということに他なりません。

けれども、この要件は、人びとが考えていたことではなく、戦後に専門家がつくりだしてしまった「住居像」に基づくものなのです。
その典型が、部屋数が多いほど高品質かの誤解を生んでしまった「住居」の中味をL・D・Kと部屋数で表わす表示法。


ところで、この宿舎に住戸暮す人たちは、車で10分~20分ほどの勤め先へ向います。買い物などをする場所は、大体その途中のどこかにある。
したがって、ここに暮す人の「世界」は、自分の居所と勤め先を「点」と「線」で結んだ鉄道路線図のような形で描かれ、その「線」の途中に、行きつけの商店・食べ物屋・飲み屋、あるいは郵便局・銀行や役所・・などが、これも「点」として描かれていることになります。「線」の両側には、「未知」の世界が広がっています。
しかも、「線」は、ほとんどの人が「車」で描く「線」。当然ですが、この鉄道路線図は、人により異なります。

こういうタイプの生活の場合、農村居住者の描くような同心円状の世界は、描けるとすれば職場の中だけ。しかし、どうやらそれも怪しげなようです。
農村集落に暮す人びとは、互いに互いの同心円を想像することができる。しかし、ここではできない。
つまり、人が、それぞれ勝手に、町や勤め先という器の中で、ブラウン運動まがいの動きをしている。

そして、この新開地の最も大きな特徴は、そこに暮す人びとが、「互いに無関係だ」と思い(思い込み)、「たまたま集まったにすぎない」と思っていることではないでしょうか。
これは、まさに、現代の大都会の生活の縮小版。
むしろ、多くの「計画」で、建築や都市計画の専門家たちが、そうなるべく積極的に推し進めてきた、と言えるように思います。
その根底に、専門家たちの描く「住居」、「町」の「像」があると考えてよいでしょう。

都市「計画」という概念が生まれたのは、産業革命が契機と言われています。そして、最初に考えられたのが「田園都市」。
都市に多くの人びとが集中し、高密で劣悪な環境の地区が生じてきた。それを「回復」しようとして生まれたのが、田園:農村への回帰の「思想」。「形」「姿」を整えれば解決する、と考えられたのです。それが「田園都市」構想。
問題は町の「形」「姿」の話ではなく、「社会の構図・構造」の問題であったにもかかわらず、建築や都市計画の専門家たちには、それは念頭に浮かばなかった。今でもその点は同じようです。皆「形」「姿」に走る。その方が「手っ取り早い」。

   田園:農村に「好ましい環境」の「秘密」がある、という「着眼」は正しかったと思います。
   ただ、それを「形」「姿」にのみ求めたために袋小路に陥った、と私は思います。

おそらく、近世までには(近世以前にもあったことだと思いますが)、日本でも、始原的な「町」とは性格を異にする「その土地との関係に必然性のない人が集まる」町ができ、「賑わい」をもつくりだしていたものと思われます。
そのとき、人びとは互いに「無縁」、「互いに無関係だ」と思い(思い込み)、「たまたま集まったにすぎない」、だから、それぞれ「自由勝手に」振舞っていいのだ、と考えていたでしょうか。
たとえば、ある街に「新人」が来て、商売を始めるために、土地を求め居を定める。今だってある話。そのとき彼はどうしたか。
決して、自由勝手には振舞わなかった筈なのです。

その明らかな「証」は、かつての「町並」に示されます。

現代生まれている「町並」で、100年、200年後、「伝統的町並」として保存しよう、と思いたくなるような「町並」は、おそらく皆無でしょう。

いわゆる「伝統的町並」は、なぜ選定されたのでしょうか。
それは、そこに、今の町並には見られない、私たちの「感性」を「揺さぶる何か」があるからです。
簡単に言えば、その町並・家並が、そこを訪れ通る人びとに「敵意」を抱かせない、あるいは、あたかもそこで暮しているかの「錯覚」をも起こさせる、そういう感覚を抱かせるからだと言えるでしょう。それが「馴染める」ということ。


   誤解のないように付け加えると、
   現在、とかく「人がたくさん通る、訪れる」ことをもって「活性化」とみなす風潮がありますが、
   それと、「馴染める」こととは、まったく別次元の話です。
   「人寄せ」(イベントという)で人を集め、人の多いことが「いい町だ」という思い込み。
   その根にあるのは、儲けた金の嵩で価値を決める「クセ」。[文言追加 18日 8.19]

では、どうして「馴染める」町並になったのか。

それは、人がある土地へ定住・定着するときの「作法」を、そこに住み着く人びと各々が、心得ていたからだ、
と見るのが最も「理(すじ)」の通った考え方ではないか、と私は思っています。

そしてその「作法」は、人びとの間で、代々蓄積・継承されてきた「作法」。
つまり、古に、農耕者たちが自らの足で探し求め、そして探し出した土地に定着するときに抱かずにはいられなかった「感覚」に基づく「作法」に源がある。
その「感覚」とは、
「土地は、天からの預かりものであって、人の勝手で扱ってはならないもの(自然の理に従うこと)」という感覚であり、
「新たにその地に定住する者は、既にその地にある『もの』(隣人の住まい、既存の地物など一切)の存在を無視できない、してはならない」という感覚です。
   地鎮祭とは、預かりものとしての土地を使わせてもらうことを願う儀式。
   今のような、単なる安全祈願ではなかった。


私の見たところ、少なくとも第二次大戦後間もなくの頃までは、この「感覚」は人びとの間に普通にあったように思えます。

私が高校生であった1950年代後半、通学途中で新しい住居がつくられるのをいくつも見ました。畑の中に100~200坪程度の敷地を求め、平屋建ての住居をつくる。
材料は決して豊かとは思えませんでしたが、高校生の私の目にも、まわりへの気配りの行き届いた、質の高い設計のように思えました(今見直すと、いい建物は、その頃のものに多い!)。
当時、土地は容易に手に入れられるが、建設費が高かったのです。住宅金融公庫はそのためにつくられた・・・。

しかし、これが一変します。
「私有の権利」を最高位に置き、法律の範囲内で、最高の利益を得ることに精を出す「現代的な開発」をもってよしとする風潮が、1962年(昭和37年)に始まった「全国総合計画」を契機として(これを「一全総」:第一次全国総合計画の略:と呼び、以後何度も改変)、一気に蔓延るようになるのです。
その結果人びとの感覚もおかしくなり始めます。
それは、端的に言えば、「地価の上昇」をもって「地域経済の活性化」を諮ろうという施策、「土地は天からの預かりもの」という感覚の「廃棄を勧める施策」に他なりません。
   この施策の立案の中心人物は、建築畑の人物です。時の国土庁長官。

「土地」は、投資・投機の対象となり、地価の上昇を待ち望むようになります。
地価の下落を「悪」と見なす傾向が普通にさえなっていきます。地価の下落を、誰も喜ばない。半世紀前の世情とは雲泥の差・・・。
そして、期を同じくして、「現代的な公害」や「環境汚染」「日照権、景観権争議」が多発しだします。

その約半世紀後の結果の「最新の」姿、いわば「成れの果て」の姿が、今回の写真のDの「住宅地」の姿ではないでしょうか。
なるほど、販売者は「十分に」利益を得たことでしょう。しかし、そこに生まれているのは、何か?
売り出しのポイントは「庭付き一戸建て」とありました。それは、隣家の壁との「隙間」のことでした。
こういう計画を平然としているのも、建築の「専門家」なのです!


しかし、こういう現代的開発が進んだ結果、皮肉なことに、質の高い町並は、「現代的な開発」の波及しなかった「遅れたと見なされる」地域に多く残されるようになったのです。
私は、その存在を、きわめて貴重な財産だと考えます。
もちろん、観光資源として貴重だ、という意味ではありません。
今や、そこにのみ、かつての私たちの先代たちが心得ていた「作法」、かつての人びとの多くの人びとと共に暮すための「知恵」を知ることができるからなのです。
そういう所で暮せるということの素晴らしさ、何と幸せなことか!現代的開発のされた地区には、探してもない!
[文言追加 18日 10.32]

私が、「伝統的町並」や「文化財」を、単なる観光資源としてのみ扱うことに異議をとなえるのは、そのためなのです。
かつての人びとのつくりだした「もの」で「経済効果」を上げようなんて、それではあまりにも失礼ではありませんか。
[文言改訂 20日 7.16]

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